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 【イスラエル 平和を願いつつ】

 私はクリスチャンではありませんが、青春時代の本好きが好じて一時、聖書をかじった事があります。どちらかと言うと新約聖書よりは、旧約聖書の中の特に「創世記」に特に関心を持ちました。神話の世界だと思っています。

 子供の頃は絵本にも憧れ、好奇心の塊で女の子であったにも拘らず「ターザン」に魅せられアフリカに行きたいという単純な動機から、青春時代の殆どを「郷に入れば郷に従え」スタイルで東アフリカ一帯を放浪していました。その間にはイスラエルに行く機会は何回かありながら、何故かチャンスを逃していました。

 今年の10月7日、イスラエルがハマスによるテロ行為で人命を含む大きな被害を受け、戦火も長引きそうで、イスラエル行は当分実施できなくなってしまいました。どうしてイスラエルだけでなく世界は争いごとが絶えないのでしょうか?


 私流の旧約聖書からの解釈では、アラブ人とユダヤ人の確執は紀元前1900年ころまでさかのぼるらしいのです。アラブ人とユダヤ人の共通の先祖のアブラハムは、正妻サラの子供イサクの子孫がユダヤ人。一方、召使の間に生まれた子供イシュマエルの子孫がアラブ人。神の予言によって、以来アラブ人はユダヤ人と争う宿命になってしまったようです。

 ユダヤ人が現在のパレスチナを追われ1900年間流浪の民となり、1948年にもと住んでいた土地で再度建国をするまで、ユダヤ人に敵対していたのはアラブ人だけではなく、ご存知の通りヨーロッパでもユダヤ人は多くの迫害の歴史があります。ユダヤ人は世界に模範となる民として神に選ばれた民であるにもかかわらず、未だに苦難困難の歴史が続いています。

 しかもです。ここも私の独断ですが、イスラエルはいろいろな意味で日本と対極にある国だと言っても過言ではありません。聖書の「神」と、日本人が感じる「神」とは現れ方が違うのかもしれません。大元は同じでも、歴史、文化、環境が違えば現れ方は違って当然、これを理解しないと聖書は読めないような気もします。ところが、素人の浅知恵でも読めば読むほどヤマト人とユダヤ人、違いよりも共通点があまりに多い事に気づかされました。

 例を挙げてみましょう。御柱祭(おんばしら)で名高い信州の諏訪大社では、古来「御頭祭」(おんとうさい)が行われてきました。15歳未満の少年が神の使いとしての役割が与えられ、柱に縛り付けられて、何と生贄にされます。あわやっ!という時に神官が現れ、少年は解き放されるというのです。今ではその風習も柱だけが残っているらしいのですが。

 旧約の神話では、神はやっと授かった息子のイサクを生贄として差し出すように命じます。神の命に従い、アブラハムはイサクとモリヤの山に向かうのです。愛すべき息子を手にかけなければならないアブラハムの心境は如何ほどだったでしょうか。このモリヤも、諏訪大社のご神体の山も「守屋」と言います。

 アブラハムの信仰心がユダヤ人と神との約束につながってゆき、信仰の始祖となっていったことが聖書に記されています。そして2千年後にアブラハムの係累から生まれた、イエスによってわずか3年間、地上で神の国を説いた人の子イエス。彼の誕生から、西暦という新たなる時が刻まれるようになったのです。

 他にも、伊勢神宮に向かう道路の両側に並んでいる灯篭にユダヤのシンボルダビデの星。「手水舎」もエルサレムの神殿に入る前に、手と口を洗うユダヤ教の儀式と同じ。エルサレムの城壁の一つにあるヘロデ門の上にある天皇家と同じ菊のご紋。さらに伊勢神宮のある地名「イゼ」がヘブライ語の「神の救い」の可能性もあるらしいのです。これらだけに留まらず、ヤマトとユダヤの間には想像を絶するつながりがあったようです。

 話はそれるようですが、人の思考には、それぞれ異なるバイアスがかかっており、往々にして対立する見解を持つのが本質のようです。そのため、子供の教育環境の中に根付いているレーティングという概念がバイアスをかける要因の一つにもなっているのではないかと言われているようです。レーティングとは、ずばり10段階の学校の教育評価値の事。例えば授業態度、環境、寄付金の集まり具合。両親の性格や収入、健康状態等々。その大事な評価値を決めるのが学校らしく、だから親は良いところに通わせようと必死とか。つまり学校は、同一の性質をもつ集団・仲間の事をコーホート(cohort)というのと同じらしいです。評価値の高い学校を選んだ方が、レベルが高い人間であると前提した上で自分達が思っている彼らと所属意識を芽生えさせて、よいコーホートを持つ事が重要だと考えているらしいです。その根っこには「人は流されやすいから、勉強や素行が良い人達の囲まれている必要がある」と考えているようです。

 ここからが私の結論ですが、選民思想はそうやって作られてき、二極化はさらに進み、自分たちを守る行為として銃社会では切ることが出来ない大事な概念のようです。争いと戦争の歴史の中で芽生えた概念かも知れない、と考えさせられました。イギリスがコーホートの研究では進んでいるようで「ゆりかごから墓場までの」追跡調査を今でもしていることが、HPや資料に載っています。関心のある方はご覧下さい。

 今後どのようにして平和がイスラエルに訪れるか分かりません。しかし、何の罪もない人達が犠牲になるのには耐えられません。どの国も、話し合いで紛争を終結させることに全力を注いで欲しいものです。私の尊敬するマザーテレサは「愛」の反対は「無関心」と応えたその言葉にぐさりときました。私も含めた多くの人は、戦争のニュースに関心は持っているものの、実際どう対処して良いか分からず、結局は傍観者となってしまっているのが現状ではないでしょうか。

 もどかしい気持ちがありますが、だからこそ、せめて(今の戦争に直接関係ないかも知れませんが)「ちょっぴり思いやり」の心で他人をもっと思いやれたら、と切望しています。


K/和子


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