知られざる強制収容所        ホノウリウリ見学会

 「知られざる強制収容所ホノウリウリ見学会」
    木曜午餐会会長  新名  瑛


木曜午餐会のメンバー17人は5月3日の火曜日に「語られざるホノウリウリ」と言われるオアフ島中西部にある日系人強制収容所ホノウリウリの跡地を視察に行きました。抑留者からは「地獄谷」と呼ばれ、夏はやぶ蚊と暑さで夜も眠られないくらいの湿地帯でした。1998年、ハワイのテレビ局からハワイ日本文化センター(HJCC)に一本の電話が入りました。第二次大戦中のナチスによるユダヤ人大虐殺を描いた映画「シンドラーズ・リスト」の関係者から「ハワイにある日本人、日系人の強制抑留所はどこにあるのか?」という問い合わせでした。誰もその場所を知りませんでした。JCCHのボランティアが必死になってその場所の確認にあたりました。やっと4年後の2002年にその場所を突き止めました。オアフ島中西部のクニアという地域で、遺伝子組み換え作物の種苗では世界の90%を占めるモンサント社の農地の中にありました。2015年オバマ大統領が国定史跡に指定したことからモンサント社はこの地123エーカーを政府に寄贈しました。現在は国立公園管理下にあり保存作業が徐々にですが進められています。
全米では12万人もの日本人、日系人が強制的に収容されたのに対し、ハワイでは当時400人足らずの人々が強制収容の対象になりました。それは当時、日系人がハワイの総人口の40%前後を占めるということもあって、まずこれだけの人間を強制収容するのが物理的にむつかしいこと、そして何よりもそれだけに人間を収容すればハワイ経済そのものが成り立たなくなってしまう、という背景もあったようです。このため日系社会に大きな影響力をもつお寺や神社の聖職者たち、日本語学校の教師、医者、日本語新聞の記者、あるいは経済界のリーダーたちが収容されました。
194112月7日の日本軍による真珠湾攻撃の後にすぐにホノルル港のすぐ真向かいにあるサンドアイランドに収容所が作られましたが、43年にはそこを軍用地として使用するため収容者をどこかに移転させなければなりました。115人が米本土への移送、残り63人が第一陣としてホノウリウリに収容されました。
ホノウリウリ収容所は大きく7つに区分けされ、第5区だけが強制収容所で、1、2、3、4、7区は戦争捕虜(POW)収容所、6区が監視官の住居とされていました。
今は密林があるのみで、当時の面影をしのぶようなものは、2軒の廃屋をのぞいてほとんどありません。用水路跡、あるいは食堂跡などのコンクリートがかすかに残っているだけです。JCCHのボランティアで、最初から発掘調査にも加わっていたジェーン倉原さんからの説明を受けながら、当時の生活を想像します。面会日に合わせて会いに来る妻や子供のために貝殻でネックレスを作ったり、あるいは外出する監視兵に頼んで、「豆腐」を買ってきてもらったり。多くの短歌や俳句も残されています。当時、日本で流行した音楽に合わせた替え歌などもよく唄われていたようです。
ホノウリウリに収容された人々への鎮魂の意味合いのあるフラも演じて頂きました。バラの花びらを林の中に投げ込みながら、「みなさん、不条理の中でよく頑張りましたね」と心の中で手を合わせました。
木曜午餐会のメンバーの中でまだ参加できなかった方たちのために再度、ツアーを計画したいと思います。



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