旅と時計
十数年前までの私は、機械文明の中に埋もれせかせかしたゆとりのない生活を送っていたものでした。時間に縛られ、時刻にしがみついていないと不安で、無意識に腕時計に目を走らせ、いつの間にか「時」の虜になっている自分がいたのです。今なら、さしずめ片時も手が離せないスマホやアイホーンが肩代わりになるのでしょうか。人間のタイプに定着型と放浪型があるとすれば、私は明らかに後者に属しています。
何が嫌だといって「アレはコウ、コレはアア」と絶対的価値観を振り回される程、嫌なことはありません。そういう人の傍へは、例え有名人であろうと何様であろうと近づかないことに決めていました。ですから、コツコツ働いてお金ができると、無目的無制限の旅に出るのが私の唯一の楽しみでした。
ある時、旅の途中でどうしたわけか腕時計を落としてしまったのです。不安もさることながら、ぼられて時計を買うのもばかばかしいと思い「昔の人は自然の恩恵と長い経験の積み重ねで、本能的に時を計る習性を身に付けていたではないか。私にも真似ができるはず」とばかり、時計と縁を切ってみる決心をしたのです。
言葉も通じず、壁中ヒビ割れだらけの部屋の隅っこに剥げた鉄パイプのベッド(左写真)が一つと、凡そゴージャスな部屋とは無縁な4流、5流のホテルしか利用しない身にすれば、時刻のわからないほど不安のことはありません。
最初は、「何?」から始まり「いま何時頃か」と誰かまわず聞きまくったものでした。それがいつの間にか(数年を要したのですが)どんな場所でもどんな動きをしていても、だいたいの時刻を数字で当てることが出来るようになっていたのです。例えば「今10時15分頃でしょうか」という具合に、です。数分の誤差しか違わず、動物的本能としての時の感覚が甦ってきたかと、当時は、ひとり悦に陥っていた昨今でした。
コロンビアでももう一つ。旅行中、時計がある部屋になんか泊まったことが無いの
に、鈍い光を放つ裸電球のその部屋にひん曲がった額の上に、針が11時を指している丸い時計がかかっているではありませんか。「おかしいな~、今3時過ぎのはずなのに」と思ってよーく見ると、何と、書いた時計のみならず窓も描き窓。私はお金を払って、四方壁の中に放り込まれていたのです。但し、ひん曲がった額だけは本物でしたが。
これらのような様々な未知の出会いに遭遇した時、私は生きとし生ける者として、なが~くてふか~い感動で気持ちが潤うのです。お金を貯めるための生活者に戻っても、私の想いは常に転覆寸前までに脱線に脱線を続けます。そしていつも相対的価値を求め、ひたすら旅に出たがっているのです。時計を持たないで。
(1981年4月)K/和子
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