木曜午餐会のメンバーの皆さまと支援して下さっている方々へ(手紙14)
皆さん、お元気ですか?「長くて暗いトンネルの先にかすかな明かりが見えてきた」と思っていましたが、8月に入ってからの新型コロナウイルス感染者の急増ぶりは目を覆うばかりの勢いです。かすかな希望も木っ端みじんに砕かれた気がします。それでも前に進まなければなりません。また一歩、一歩とささやかな楽しみを見つけながら毎日の生活を充実させていきましょう。「一生勉強 一生青春」です。日々新たに何かを学びながら、成長を続けましょう。私はワクチン接種派ですが、ワクチンを打たない人々への理解も忘れてはなりません。そこで今回はワクチンを打たない人々の説明もじっくり聞いてみたいと思います。
ワクチンを打たない理由
アメリカでもそしてハワイでも新型コロナに対するワクチンの接種率が頭打ちになっています。州政府は公務員、そして医療関係者には接種を義務付けるように決定しましたが、イゲ州知事の接種率70%に届く前に、強力な感染力を持つデルタ株の蔓延で今や100%に達しない限り広がりを食い止めるのは無理だと言われるようになっています。でも、そんな中、医師や高齢者など優先接種される立場の中にも「打たない」と決めた人々がいます。その理由を知りたいと思いました。ジャーナリスト・鳥集徹氏と女性セブン取材班が、彼らの胸中と「打たない」選択をした理由に迫った。(女性セブン2021年8月12日号からの抜粋)なぜ、そんなにも接種を嫌がる人が増えたのか。その背景にあるのは、「反ワクチン派」の存在である。「不妊や流産が起こる」「遺伝情報が書き換えられる」といった話から、「磁石がくっつく」「マイクロチップが入っている」というにわかに信じがたい話まで、根拠のないデマを流し、不安をあおる人、そしてそれをうのみにする人が増えているというのだ。「ワクチン接種をしない」と決めた人たちにその理由をたずねた。
「私が打たない理由は2つあります。1つは私が40代であること。今後、子供が生まれる可能性が充分に考えられる年齢にとって、1年足らずで開発されたワクチンは長期的にどんなリスクがあるかわかりません。それに、40代はコロナに感染しても重症化するリスクが低く、ワクチン接種で個人的に得られるメリットは少ないと感じる。現状では打たなくてもいいと判断しました」。 そう話すのは、鹿児島で訪問診療のクリニックを開設する、医師で医療経済ジャーナリストの森田洋之さん(49才)だ。森田さんはワクチンの効果を完全に否定しているわけではなく、それなりに有効性があり、医師という職業上接種する選択も悪くはないと考えているという。だがもう1つ、打たないのにはこんな理由がある。森田さんが続ける。「医学生や看護学生たちは実習を受ける際に、このワクチンの接種が求められています。しかし10代後半から20代前半の人は、コロナで亡くなるリスクはほとんどありません。にもかかわらず、長期的な安全性が不明なワクチンを打つようプレッシャーをかけられているのは、とても気の毒です。現役の医療従事者も、本当は全員が打っているわけではなく、体感として接種率は8、9割だと思われます。しかし、打ちたくないと声を上げづらい雰囲気がある。ならば、『私は打っていませんよ』と言ってあげられる医師が1人くらいいてもいいのではないか、そんな気持ちから表明しています」
多くのコロナ患者を診療し、ワクチン接種も行ってきた医師の中にも、「自分は打たない」という人がいる。現在、ワクチン接種にも従事しているある医師は、その理由をこう打ち明ける。「飛行機が落ちるのが怖くてわざわざ電車で行くのと同じで、未知のワクチンを打つのはやはり抵抗があるというのがいちばんの理由です。また、発熱外来でたくさんのコロナ患者に接してきたのに、私は発症しなかった。すでに免疫があるのではないかとも考えているのです。同様の理由で打っていない医師や看護師は少なくない。このワクチンを打つと発熱して、1~2週間動けなくなる人も多い。私が倒れると代わりの医者がいないので、休めないという事情もあります。ほかの職業の人でも、どうしても休めないから打ちたくても打てないという人がいるんじゃないでしょうか」。 実際に患者にワクチンを打つ中で、副反応に苦しむ人がいたことも、懸念の理由になっている。 「実は、私がワクチンを打った人の中にも、接種後に体調が大きく悪化した人が10人くらいいます。幸い亡くなった人はいませんでしたが、発熱した後に体力が衰えてしまった高齢者や、原因不明の腰痛が出た人も複数いる。こうした状況をみて、“打って大丈夫なのか?”と密かに思っている医療従事者は多いと思います」。厚労省のホームページでは、「ワクチンを接種できない人」の例としてワクチンの成分に重度のアレルギーの既往歴がある人を挙げているが、既往歴がなかったとしても、副反応が強く出やすい人がいるのだ。
かつての薬害もうやむやだった
新型コロナは高齢になるほど致死率が高い。副反応のデメリットがあっても、高齢者はメ
リットが大きいとされているが、それでもワクチンを打たない選択をした人がいる。大学元教授の70代の女性はこう話す。「過去の薬害に関する報道をずっと目にしてきて、医薬品の被害者にまともに対応してこなかった国の振る舞い方に不信感を持っています。過去に薬害が指摘された別の病気のワクチンについても、本当に安全で効果があるといえるのか、国はまともに追跡調査してこなかった。今回も接種後にたくさんの人が亡くなっているのに、国は『因果関係が評価できない』と言って、きちんと調べようとしていません。それに対する抗議の意味も込めて、打たないと決意したのです」。
デマと断言する方がデマではないのか
若い人たちの接種がいつから始まるか見通しは立っていないが、いずれにしても自分は打たないと決めていると女子学生は話す。20代のコロナのリスクが極めて低いことに加え、こんな経験も背景にあるという。「HPV(子宮頸がん)ワクチンを受けた数年後に、極度の体調不良に陥りました。回復に1年以上要し、治療に大変苦労したのですが、医師から『HPVワクチンの副作用があるのでは?』と言われたんです。それを証明することはできませんが、今回のワクチンも、数年後に病気が起こることがあり得るのではないかと思っています」。また、こうした経験があるからこそ、このワクチンについても詳しく調べ、家族ともかなり話し合ったという。「ワクチンの副反応に警鐘を鳴らす医師のブログや動画をたくさん見ています。血小板減少症や心筋炎の副反応が問題となっていますし、自己免疫疾患が起こり得ると指摘している医師もいます。それを見ると、やはり安全と断言できないのではないか、というのが私の考えです。河野太郎ワクチン担当大臣が『不妊や流産になるというのはデマ』と発言して物議をかもしました。しかし、『科学的にはまだ何とも言えない』というのが正しく、デマと断言する方がデマではないでしょうか。不妊や流産だけでなく、あらゆる健康への悪影響は、5年、10年経ってみないとわかりません。副反応に関する報道や議論は短期的なものが多いですが、長期的に健康の影響を考える視点が重要だと考えています」。
ホノルル・アドバ―タイザー紙は8月中旬の紙面でイースト・ウエストセンターの感染学専門家ティム・ブラウン氏の意見を掲載していました。要約すると、「デルタ株はゲームチェンジャーです。これまでのウイルスに比べ1000倍(100倍ではありません)もの感染力があります」と強調しつつ「このデルタ株に対してレストランのキャパシティーを50%にまで制限する(という週政府の方針は)冗談かと思いますよ。40人から50人のお客さんがマスクもしないで食べたり飲んだりしているのを見ると、これはもうデルタ株にとっては願ってもない饗宴でしょう」。ブラウン氏は「ホノルルもニューヨーク、サンフランシスコと並んでレストランやバーに訪れる人にはワクチン接種を義務付けるべきではないでしょうか。それでも感染の可能性はありますが、病院に収容される可能性は低くなるし接種率を高める効果もあります」という。「ワクチンを打たずにマスクを」ではなくて「ワクチンを打ってマスクです」。彼の見通しでは早くとも10月一杯まではデルタ株の蔓延は続き、来年まで明かりは見えてこないかもしれません。一方、ハワイ大学のモニク・チャイバ教授(数学)は23日の紙面で「10月のピーク時には1日で3,700人の感染者が出ることも予測されます。予測が外れてくれれば嬉しいですが、統計学から出てくる数字は嘘をつきません。人の行動様式だけは数字として読み込めませんが」と“不気味な”予言をしています。
これらの意見を読まれて皆さんはどのようにお感じになりましたか?ワクチン接種を4月に完了しながら8月にコロナに感染してしまったという59歳のホノルルの知人や40代後半のネパールの友人がいるので、個人的には3回目を接種しても良いという決定が出されれば進んで打ちに行きます。
濃口から薄口へ…駅そばの味が東西に分かれる境界駅はどこか?
駅そばを食べるのが楽しみという人がいる。私も日本で旅をする時は、つい駅そばに立ち寄ってしまいます。つゆの違いもさることながら、卵のあしらいや薬味などにも違いがあり、同じそばでも千差万別の世界が広がっていますね。ところで駅そばには、大きく東と西に分けられる境界線があるようです。ここからは話題の新刊書「おもしろ雑学 日本地図のすごい読み方」からの抜粋です。
つゆに関していえば、「東の濃口、西の薄口」が端的な例だろう。東はカツオ出汁を使った濃くて甘い味わいが特徴である。それに対して、カツオ節以外のサバ節、ウルメ節、煮干しなどを使って出汁をとるのが関西風。これら出汁に関東では濃口しょうゆ、関西は薄口しょうゆで味つけする。ある専門家によると、つゆの境界線は、東海道本線の関ヶ原駅で分かれるという。東海道新幹線の場合は、米原駅から西が関西風になる。つゆの色も変わるので一目でわかるようだ。同様のことはカップ麺の世界でも起こっている。定番商品の東洋水産「マルちゃん赤いきつね」や日清「どん兵衛」でも、関東と関西でつゆの味を変えているが、その境界線は関ケ原だというのである。
つゆだけではない。たとえば「月見そば」の卵のあしらい方にも東西の違いがある。関東では割ってすぐの生卵をそばにのせて出される。つゆを夜空に見立て、夜空に浮かぶ満月を楽しむような風情が生まれる。一方の関西風では、ゆで上げたそばを椀に盛り、次に卵を中央に落とす。そこに温かいつゆをかける場合が多い。卵は白みがかった凝固状になっていき、見た目は「おぼろ月夜」の雰囲気を醸し出す。しかも卵がつゆと融合して関西人好みのまろやかさを増すというのだ。
薬味の違いもある。濃い味わいの関東では白ネギが使われるのに対して、関西ではぬめりを伴う青ネギが薬味に添えられる。薬味ひとつとっても関東と関西では微妙に異なるのだ。こうしてみると「たかが駅そば」と侮れない。駅そばの世界でも、関ケ原は「天下分け目」の境界線といえるのだ。
ここで訃報です。木曜午餐会のメンバーでもありましたロッキー・チュイさんがお亡くなりになりました。90歳だったそうです。台湾出身の方で、木曜午餐会には2018年に入会されました。息子さんのお話では「病院にはいることもなく、突然のように亡くなった」そうです。心からお悔やみ申し上げます。合掌。
メイジ―・広野のお母さんの話(その2)
苦難のスタート :1955年(昭和30年)千枝子と子供2人がプレジデント・クリーブランドで先にハワイに向かいました。慶子(メイジ―)は自叙伝の中で「横浜の大桟橋で太利ほか見送りの中にいた3歳の茂樹を日本に残す千枝子の断腸の様子」が書かれていました。到着した3人は従妹の世話でマキキ地区ケワロ街にあったボーディング・ハウス(共同キッチン、共同トイレの安宿)に旅装を解きました。ベッド1つ、テーブルと3脚の椅子がある部屋からハワイ暮しが始まりました。子供の学校ほか社会保障局での手続き(日本ではマイナンバー)など雑多な手配が終わると職探し。千枝子は先ず、ハワイ報知新聞社で文選の仕事を始めました。文選とは活字棚から活字を拾って掌に持ったステッキに並べたり、使用済みの活字を元の活字棚に戻す仕事で、植字工と言われました。新聞社は現在と同じ場所にありましたが木造で、4年後に静岡新聞社が支援し、鉄筋の社屋になりまし た。入社4年後、時給が少し多い凸版輪転機の要員となり、油と鉛筒版と騒音の中で働きました。一 度は輪転機に左人差し指を挟まれ、いまだにいびつになっています。ハワイ暮しが始まった頃はセカンドジョッブを持っていました。報知での仕事が終わるとカネオヘに行ってローヤル・ハワイアン・ホテル関係の観光客が島めぐりの最後に立ち寄るルアウ・パーティでの 仕事を手伝っていました。パーティは時々デリングハム家とかファーリントン家などの個人邸宅で催さ れ、朝まで続いたこともありました。翌朝、報知での仕事中、立ったまま居眠りをして活字棚に頭をぶっつけて同僚に笑われたこともありました。子供達が寝ている間に出かけ、帰った時はもう寝ているということで、メモで要件を伝えていました。土曜日の午後になると同僚たちはさっさと手を洗って映画へ行くのを楽しみにしていましたが、千枝子はすぐ家に帰って洗濯を始めました。千枝子は幸いにして丈夫でしたが、時折のフルーは真っ先に罹りました。慶子が台に乗って洗濯し、芳和が干すのが役目で、いじらしい子供たちの姿を見る度に涙しました。毎月貰う給料で精一杯の生活だったので、慶子が10セントずつためてはカラカラと鳴らした貯金箱から食事代に1ドル、2ドルと手をつけた悲しい思いを忘れることができないとか。
1955年から6年間ハワイ報知で働いた後、ホノルル・アドバタイザー社の求人(輪転機要員)を見てアプライしたけれど、先方は大男で力持ちを期待していたため不採用になりました。後日、校正係では?と打診があり、以後24年間、62歳になった1982年まで働きました。スペリングはもとより地名も文法上のミスも許されません。英語と数字との闘い・・・楽ではありません。十分な英語教育を受けていない千枝子は「あの頃よく勉強した」と述懐しています。 一方、2年遅れて1957年(昭和32年)に両親と次男の茂樹が到着し、ハワイカイのルナリロ・ホー ムロードに家を探し、やっと家族6人が揃って暮らせるようになりました(左の写真)。その頃は鶏舎や豚小屋や畑 が広がっていました。バスでカパルアのハワイ報知まではずいぶん遠いので朝は5時に起きました。後日カイザー・グループが開発し、一帯は立派なベッドタウンに 変わりしました。両親は50歳代半ばでしたので、自営業を始めることもなく、近くの花卉栽培農園で仕事を得た後、ワイアラエ・カントリー・クラブで、太陽と大地と草木に囲まれてリタイアするまで働きました。両親の最後の仕事は毎日楽しそうでした。兄の芳和は電気工学を専攻し、卒業後ベトナム戦線に派遣されましたが、帰還後はハワイアン・エレクトリック社で配電技師として。リタイア後は持ち前のハンディマン ぶりを発揮し、自分(メイジ―)と千枝子の家、時には知人の家にも回って修繕、ペンキ塗り、大工仕事と多忙な 日々を送っています。
1978年、身辺がやっと落ち着いた時、次男・茂樹26歳を海難事故で失いました。茫然自失の時期が続きましたが、身内の勧めで24年ぶりに日本を訪ねました。旧友がたくさん集まりクラス会ほか各地へ旅行し楽しく過ごしたそうです。 1981年、今度は旧友8人が来布、弟のあきらがバンで島めぐりほか観光に。慶子は時のジョージ有吉・州知事への表敬訪問を手配し、集合写真は後々までも手元に置いていました。その後、83年、87年、 89年、91年には太利と訪日。一度は慶子と一緒にお世話になった村立睦合小学校を訪ね、学校全員による優秀歌の合唱を披露してくれました。この小学校には、ハワイ睦合村民会が寄贈したピアノが健在でした。 1989年、父ひろしが91歳で他界(慶子が州下院議員の頃)。 1999年、母太利が99歳で他界(慶子がハワイ州副知事の頃)。
リタイア後 :千枝子のリタイア後はまた忙しい毎日でしたが、時間を作ってアルバムの整理から始めました。幼児の頃からのセピア色に変色した写真を年代順にまとめ、それぞれの写真に丁寧なコメントを入れ、24冊にまとめました。ワイパフ⇒ダウンタウン⇒福島⇒ホノルルと移動の多かった過去を通じて、散逸するのが常の写真を整理し、波乱に満ちた千枝子の生涯を見事に物語っています。もう一つはファミリーヒストリー。過去帳に詳しくコメントを添えたようなもので、核家族化が進む世の中で、家族を大切にした千枝子の暖かい人間性を垣間見せてくれました。 千枝子の記憶によると、ダウンタウンのククイプラザあたりで
5回くらい引越しをした後、日本へ。またハワイに戻ってからはマキキ、ルナリロ・ホームロード、カイムキ、ハワイカイから今の家まで前後12 回も引っ越しています。引越し係はあきらで、その都度面倒を見てくれました。引越しに付き物の転校にも子供たちは率直に付き合ってくれました。「先夫との結婚生活6年の間、貰ったお金は皆無。それ以来、貧乏を重ねながらもやっと自分の人生を振り向く余裕のできた現在まで、面倒を見てくれた両親、 支えてくれた子供達、助け続けてくれた身内の人達、激励してくれた知人・友人・同僚に感謝の言葉 もありません」と。千枝子の教育方針?「そんな暇はありません。子供達が私の背中を見ながら、自分で考え考え勉強したんでしょう」・・・晴れ晴れとした表情が印象的でした。現在の家はメイジーが副知事に就任した1995年に「玄関のドアに付いているオーナメントが気にいって」即刻購入したとのこと。東ホノルルの高台にあり、リーフ滑走路からエバやマカキロまで見え、ダイヤモンドヘッドを眼下に、180度のビューが楽しめ、貿易風が気持ちよく通り抜ける住み心地の良い家です。猫の世話や庭仕事、押し花作り、グアバ・ジャム作りと多忙な日々を送っています。メイ ジーが帰ってきた時は好きな納豆や刺身を買いに行きます。インタビュー中に感心したのは、とつとつと語る内容と記憶の正確なことでした。(山谷敏夫の瓦版61号より)
どうでもいい話
「Japan as Number 1」という本の名前を覚えていますか?ハーヴァード大学のエズラ・ヴォ―ゲルという社会学教授が1979年に出版した本で、副題には「アメリカへの教訓」とありました。戦後の日本の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価していました。1980年代には日本はバブル景気でロックフェラー・センタービルをはじめコロンビア映画の買収などアメリカの資産を買い占め、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本の名前通り、日本人は日本が世界一の経済大国になったという幻想を抱きました。90年代の初めにバブルは崩壊しましたが、それから30年、日本はながーい停滞を余儀なくされました。「失われた30年」と呼ぶ人もいます。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代はもはや遠い昔のこと。賃金も資産も日本ではすっかり安くなってしまいました。「日本の温泉旅館、保養地は今が買い時と」と群がる人もいます。日本は安い国になりつつあります。ご飯が安くておいしい。治安もいい。でも、この日本の「快適さ」の裏にあるのは、人のコストが安いということです。例えば、ハワイの最低賃金は時給10ドル10セントで物価の高いハワイで十分とは言えませんが、一方日本での驚くべき数字を見ると思わず唸ってしまいます。2021年8月時点で宮城県825円(7ドル50セント)、福島県800円(7ドル28セント)などで、東北地方6県平均で799.3円だ(7ドル23セント)。調べてみると日本の最低賃金はG7(先進7カ国)では実質的に、最下位の状況でした。OECD(経済協力開発機構)の2020年のデータを基にすると、G7のうち日本の実質最低賃金は8.2ドル(時給)で上から5番目。一番下のイタリアは、法定の最低賃金制度そのものが存在しない。だから最低賃金の比較そのものから、イタリアは除外せざるを得ない。次にデータ上では7.3ドルで、日本より1割強低い米国については、OECDの統計に使われている米国の最低賃金は連邦政府が定めた金額で、実際の雇用市場では6割の州がこれよりも高額の最低賃金を定めています。例えば人口最多のカリフォルニア州は、14ドル(約1530円)が最低賃金。だからG7中、本当の「最低賃金ビリッケツ」は米国ではなく、日本であると考えるのが適切なようです。OECDの調査によると、日本の平均賃金(年間)は2000年時点、3万8,364ドル(約422万円)で加盟35カ国中17位でした。20年には3万8,514ドル(約423万円)と金額はわずかに上がったものの、22位にまで順位を下げました。過去20年間の上昇率は0.4%にすぎず、ほとんど「昇給ゼロ」状態。他国と比べると、日本の賃金の低さは歴然としています。トップの米国は6万9,391ドル(約763万円)で、率にして44%の大差が開いているのです。OECD加盟35カ国の平均額の4万9,165ドル(約540万円)に対しても
22%低い。米国以下には、アイスランド、ルクセンブルク、スイスといった欧州の国々が並んでいます。日本の賃金はこういった欧米の国々に負けているだけでなく、お隣の韓国よりも低くなっているのです。「物価が安い」のは嬉しいけれど「給与が低い」のは嬉しくありませんね。ソフトウエア開発の業界では、発注金額の低さにうんざりして、中国の下請け企業が日本の仕事を敬遠する動きが広がっている、と聞きました。「失われた30年」でいつの間にか転落の一途をたどるようになっていました。どこで何を間違ったのでしょう。
木曜午餐会役員一同
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