きょうだい旅行
国方 学
二〇〇〇年四月九日
(1)
教会の先生が、葬儀のときは三人だったが、今回は ひとりだけで朗々と祝詞をあげている。その最中、津 和子はみんなの背中越しに首をねじ上げて、母親の写 真に見入っていた。あれはたしか、米寿の祝いでかぶ と虫温泉へ行ったときに撮った写真だ。かすかに笑っ た柔和な顔だが、ちょっと恥ずかしそうにも見える。 実家の神壇のある座敷の右手の鴨居の上。父と並ん で額縁に入り、高い所から子や孫を見下ろしている。
見上げる津和子の方にも、照れのような違和感があっ た。あの元気だった母さんがあんな所に収まって…… そういう思いが写真の画像に反映して、恥ずかしげな 表情に見えるのかもしれない。母の信仰したこの教義では、仏式の三年七年という 法要ではなく、五年十年という区切りで供養の祭祀を行う。この日は母没後の五年祭を親戚抜きで、仙台の叔母も招かず、子や孫たちだけで執り行っていた。東 京や大阪、名古屋、四国の郷里近辺から集まったきようだい八人が、祭壇の前に並んだ。末っ子の津和子は いちばん末席にいて、兄や姉の薄くなった後頭部を眺 めている。
母の法要ではあるが、きょうだいたちに逢えるのは うれしかった。血の繋がった歓びというより、朝鮮か ら日本に引揚げてきてこの開拓部落に入植し、ひとつ 鍋の炊とんでひもじさをしのいだ同志との再会みたい なうれしさだ。寒い冬の夜、ひとつの布団にもぐり込 み、寒さに耐えたあのときの皮膚感覚が、今もみんなの肌の皺の奥に残っている気がする。顔を合わせるとそのときの温もりが甦ってくるようでうれしい。 祝詞をとなえる先生のすぐ後ろにいるのは、きようだいでいちばん年上の長姉である。体は小さいのに声 と態度は大きい。その横に並んでいるのが長兄と次兄。
長兄は内地への引揚げ時には十五歳だった。本当は 大学に進学したかったのだが、弟妹が多い家庭の事情 で、高校卒業後銀行に就職して家計を助けた。結婚後もあちこち転勤が多く、老父母と同居できなかった。 長男のかわりに両親の老後を支えたのは次兄だった。 この兄は勉強は苦手だがやんちゃは得意という問題児 だった。あの温厚な父がこの兄にだけ手を上げたとい う。仕事もいろいろ変わったが運送会社の運転手をし て、結婚後も実家の離れに住んで、最後まで老親の面倒をみた。だから両親の葬儀の喪主は長男ではなく、 次男であった。津和子にとってこの上の三人は、同じきようだいというより親戚の叔父叔母みたいな感覚だった。年も離 れているし、早くから家を出て、いっしょに遊ぶ機会 も少なかったので仕方がない。下の半分が本当の兄や 姉といった気持だった。
パンパン、パンパンと柏手が座敷に鳴り響いた。長 姉がひれ伏すように祭壇に頭を下げる。ほかのみんな もそれに倣った。先生が「玉串奉樊」と指示をした。長兄が尻を上げかけたが長姉はそれを制し次兄を促す。次兄は肉体 労働で太くなった手指で榊を持ち、枝の向きを変えて母の神前に供える。こういう法事や葬式は仏式でやる方が合っているように津和子は思う。読経や線香の匂いの方がしめやかな雰囲気を醸し出す。でも、ほかのきょうだいは昔から母のいいつけに従順だった。鴨居の上を見上げるとうっすらと鼻髭をはやした 父がウインクしたように見えた。
母が亡くなってから、実家とのつながりは今までみ たいな濃密なものではなく、ゆるやかになっていた。 きょうだい間のつき合いも、母という媒体を失ったせいで、それまでよりは希薄になった。生きていれば母の話題を中心に連絡を取り合って、ひんぱんに交流したのだが、今はその必要もない。む しろそこから解放されて、自分の家族や趣味などに集 中し、両親のことは忘れがちであった。それだけに実家での法要を終え、会場を料理旅館に 移してからの食事会は、きょうだいだけの気安さから 今までにない盛り上がりをみせた。「おい、津和子、お前んとこの店、大丈夫か。つぶれ やせんか」 世の中の景気に左右されやすい水商売を心配して、 きようの祭主の次兄が声をかけてくれる。
「こゝつよ。こゝつ」津和子は右肩をガクンと下げる仕草をした。バブル がはじけて八年。売り上げは下がる一方である。
「そうだよなあ。わしも来年からは無職だわ」 定年を過ぎ、それから一年ごとの契約で運送会社で働いてきた兄も、七十代では仕事はない。景気は後退 し、みんなの髪の生え際も後退し年取っていく。 「引揚げてきたとき、父さんはいくつだったか知ってるかい」
隣の席の長兄が、だれにいうともなくみんなに向かっていった。この人はい つも皆に教える物言いをする。 「四十九だよ。母さんが四十三」 ホーツという感嘆の声が上った。そんなに若かった のか。わたしよりウンと若い。今年五十六になる津和 子は、なんだか痛ましいような気持ちで両親のことを思った。その年で無一物になり、八人の子どもをかか えて山の開拓農家になったのだ。
「母さんが生きていたら今年で九十七。百歳まで生き てほしかったわね」
テレビで活躍のキンさんは亡くなったが、元気なギ ンさんを見ると、母も生きていればなあと思う。
「みんなも年取ったわね。死ぬまでにやりたいこと、 やっておいた方がいいわよ」
「やりたいことか?」
きょうだいみんな、互いに顔を見合わせた。津和子にはまだ実感なかったが、長姉は七十五歳だからそう いうことも考えるのではなかろうか。
「そういう映画を観たことがあるよ。癌になって余命何カ月といわれ、やりたいと思っていたパラセーリン グや超高級店で食事をしたり……」
兄のひとりがそういい、別の兄が受けていった。
「しかしそういうのって、全部やり終えた後はいやだ よね。あとはもう死を待つだけなんて」
「ねえねえ」
姉さんたちを呼ぶみたいに下の姉が声を上げた。
「みんなで旅行に行くってのは、どう?」
「みんなって、きょうだいみんなで?」
「いいねえ。温泉一泊旅行。下呂なんか行ってみたい と思っていたんだ」
旅行という提案に兄たちも気をそそられたみたいだ。 きょうだいは他人の始まりという言葉もあるように、 特に親が亡くなった後のきょうだい仲は疎遠になるのが普通のようだが、うちの場合は違うと津和子は思っている。八人もいるのに、煙たがったりいがみ合う兄 弟姉妹はいない。それゆえ、マイクロバスに乗ってワ イワイ行くのはきっと楽しい旅になるだろう。でも、下呂温泉ではなあーー
「じゃあさ。いっそのこと思い切って、忠州というの はどうよ?」
「えゝえー? 忠州?」
このことばを聞いてみんなの顔がいっぺんに花開 いたように明るくなった。この地名はきょうだいにとって特別であり、第二のふるさとといってもいい憧 れの町の名である。
津和子の記憶は一気に四十五年前、小学校四、五年 生の頃の、山の家の茶の間の風景にまで飛んでいった。あの頃の思い出はとにかく食べ物のことが強烈にし みついている。
アレがおいしかったとか、コレがうま かったというのではなく、ただただいつもお腹をすかせていたという怨みの記憶だ。夢見る少女の津和子でも、いつも夢想していたのは、白いご飯をお腹いっぱ い食べられたらどんなにいいだろうということだった。 夕飯で麦ごはんが食べられるのはまだいい方で、 菜っぱの沢山入った雑炊だけというメニューの日も あった。それでも食後はみんなで掘りごたつに足を つっこみ、いろんなおしゃべりをした。一家団樂で空腹のやるせなさを紛らわせていたのだと思う。
「ねえ、今いちばん食べたいものってなあに?」 あのころのゲームだ,そんなことを聞かれてもこま る。幼い津和子には何が食べたいのかもわからない。 ごちそうを食べたことがないからとりあえずお腹が いっぱいになればいい。
「そうだなあ。オレは向いご飯に明太の子をのせて、 それを朝鮮海苔で巻いて食いたい」
高校生の兄が鼻の穴を広げていう。いかにもおいしそうだが、明太の子とか朝鮮海苔ってどんなもの? 「俺はカルピッチムだな。くるくる巻いた骨付き肉。 あれは牛のあばら骨なんだ。それを炭火で焼いてみろ。 匂いだけでメシ三杯はいけるぞ」 「あれって、ハーモニカっていってなかった?」 「ああ。骨に付いた肉をかじる恰好がハーモニカに似てたからね」
「忠州にいるときはオモニがよく作ってくれた」 「兄さんはオモニのオンドル部屋に行って、赤いごはんを食べてたでしょ」
「うん。コチョチャンな。辛いけどうまいんだ」
オモニというのは住み込みのお手伝いさんのことだ。 食べ物の話が一段落すると、忠州でのソリ遊び、鶏足 山の登山遠足、達川の釣り……。ほんの十年ほど前まで住んでいた忠州の家での事柄が次から次へと出てき てそのうち小さい津和子はこたつ布団の裾で居眠りしながら聞いている。
忠州には何でもあるんだね。お菓子も人形も、オル ガンも百科事典も、テニスコートまで。それをみんな 置いてきたの。バカだなあ。持ってくればいいのに。 掘りごたつで聞いた兄姉の話はみんな朝鮮での出来 事だった。山の開拓生活には何にもなかったので、ま るでパラダイスのように聞こえた。一歳半で引揚げて きた津和子には一つの記憶もないが、眠りながら自分で描いた空想の忠州はおとぎ話の国みたいだった。 その忠州にきょうだいみんなで行こうというのだ。 胸が躍る。血が沸き立つ。
「行こうよ」「行きたい」。声はすぐ上った。みんな同 じように思っていたのだ。死ぬまでに一度行っておき たい所は忠州。むろん津和子も異論はない。兄姉の年 齢を考えれば、今がちょうどリミットかもしれない。 「いつ?」「来年?」気ぜわしげに聞く声に、リーダー 役の長兄がまとめる。「じゃあ、みんな行くのでいいんだな」
「ちよ、ちよっと待てよ」
次兄だった。いちばん呑み助でいやしん坊で、下腹 の出具合いが尋常ではない彼が、充血した目でいった。 「あんなとこ、みんなホンマに行きたいんか」
あれ?と思った。次兄がいちばん行きたいんじゃな いの。少年時代、いたずらばかりしてたんだから。「きみは行きたくないのか」
一歳違いの長兄がきいた。銀行員らしい儿帳面さと 冷たさがこもった声で。
「何しに行くんや。汚いとこやぞ」
何しにって。この人は自分の生まれ育った所が懐か しくないのだろうか。
「わしはイヤや。それに、そんな金もないし」
多少酔っているとはいえ、次兄からこんなことばを 聞こうとは思わなかった。韓国をよくいわない人は津 和子の店のお客にもときどきいる。でも、うちのきようだいの中から嫌韓を口にする者が出ることは予想していなかった。
わたしは韓国のことを美化し過ぎているのだろうか、と津和子は思った。実際に見聞きしたのではなく、親 や兄姉の話から創り上げた忠州像なので、ただ憧れて いるだけなのか。その点次兄は、実際にイヤな目に遭っていたのかもしれない。「わたしもちょっと無理かもしれないわ」 あたりを憚るように小声でいったのは次姉だった。 津和子はびっくりした。
「エッ。なんで? 姉ちゃんもイヤなの」 この姉こそ忠州を恋い慕っているとばかり思ってい たのに。
次姉は結婚してから趣味の人形作りに打ち込んでき た。東京で人形展を開いたこともある。なぜ人形を作るようになったかというと、忠州から日本に引揚げてくるとき、大事にしていた人形を土に埋めてきたためだった。そのときの口惜しさが人形作りの原点になっ たといっていた。その忠州に行かないなんて。 「ううん、行きたいわよ。行きたいけどうちには糖尿 病の病人がいるでしょ。だから家をあけられないの」
義兄のことだった。糖尿からくる合併症で入退院を 繰り返している。いまは在宅療養中だが、病人用の特別食を作るのが大変らしい。目を離すと、止められて いる食物に手を出すので、留守にできない。 「行ける人だけで行ってきて」
せっかくのきょうだい旅行なのに、二人不参加で残 り六人で行ってもつまらない。八人揃って行くのに意 味があるのだ。「ねえ。みんなでいっしよに行きたいよう」 甘えん坊だった昔を思い出して、津和子はせがむよ うにいってみた。
(2)
津和子が物ごころついたときの家計は貧しかった。 それは戦後日本のどこにでもあった困窮生活なのだが、 幼少期の津和子は「うちは貧乏なんや」と思い込んで 育った。そしてその劣等意識はかなり根深く津和子の 心に巣食っていた。忠州に行くということは、そのときのコンプレック スを振り払いに行くという意味も含まれている。向こ うでどんな生活をしていたのかを見届けることで、幼 い頃の怨念を晴らす。少し大袈裟かもしれないがそ んな風にとらえていた。
きょうだいすベてが忠州で生まれたわけではない。 父は転勤の多い銀行員だったので、元山で結婚した後、 金泉、金堤、釜山鎮、馬山などにも赴任し、忠州で支 店長になった。
忠州はむかし京城といったソウルから南東へ車で二、三時間行った所らしい。日本でいえば岐阜市みたい な山間の小都市で、忠清北道に位置する。きょうだい の上四人は金泉や釜山鎮などで生まれたが、下四人は みな忠州で生まれ、そこが一家の在鮮最後の土地だった。銀行員としての父の絶頂期であり、家族全員思い 入れのつよい町であった。
四国の実家で執り行った母の五年祭後の食事会で、きょうだいで忠州へ行く話が持ち上がり、大筋でみんなの合意を得た。二人不参加ということだったが、一 年半後の秋、一家が引揚げてきた十月を目標に計画することになつた。
父の跡を継いだ形である銀行員の長兄の音頭取りで、 全員の旅行資金を月々積み立てることにした。きょう だいの間でも家計に凸凹があるので、無理のない程度の金額を出し合って、きようだい会名義の口座に各々が振り込む。自営業の津和子は少し多めの送金をして、 世話になった兄姉へ の恩返しをするつもりだった。 それと同時に、韓国・朝鮮についてほとんど何にも 知らないので、図書館で関連の本を借りて勉強することにした。自分がどうして朝鮮で生まれたのか、家族の歴史についても調べたいと思った。 両親が金婚式を迎えたとき、家族みんなで記念のファミリー文集を作ったことがある。その冊子には父 母それぞれが自分の家系と生い立ちを書き遺している。
それによると、先に朝鮮に渡ったのは母の祖先だった。母の祖父は元々武家の出で、廃藩置県により禄を失ったためいろいろ苦労をしたらしい。そういう士族や、 維新の急激な改革ではみ出た人々の不満をそらすため、 明治政府は未だ鎖国状態にあった隣国に目をつけた。 明治四十一年(一九〇八年)に、「朝鮮を指導し富強 をはかる」ことを目的とした東洋拓殖会社が設立され た。その営業内容は、かの国の農業・土地の売買と賃 借、不動産の経営管理、日朝移住民の募集と分配とい うことであったと、本を読むと書いてある。 母が金婚式の文集に書いたものを読み直すと、祖父 は東拓設立より三年早い『明治三十八年に、日印綿株式会社の代表として元山に移住した。その後独立して いろいろ事業をし、元山開発の第一人者のひとりにな ったが、士族の商法で財は大を為さなかった』とある。 いろいろな事業というのはどういう仕事をしたのだろう。津和子が子どもの頃、母が祖父のことを自慢げに語る話の中に、米を扱ったとか華街を作ったという ことを聞いた気がする。身内の懐旧談なので、派手に儲かれば痛快に思ったのだが、中には阿漕な商売に手を出していたやも知れない。
図書館にある朝鮮・韓国の近代史に関する書籍には 大まかにいって二種類あるように感じられた。 ひとつはリベラルな立場からものをいう派で、反対 派からは自虐史観と揶揄されている。もうひとつは高 見からものをいう派で、植民地化は朝鮮の近代化を促 進したという見方。
母の祖父が元山にきて十年後に、大日本帝国はそれまで保護国としていた朝鮮を正式に併合して植民地と した。朝鮮総督府がまず行ったことは、それまで曖昧だった土地の所有権をはっきりさせることだった。識字率や近代的権利意識の高くないところで地籍が確定され、上地は売買される商品となった。 祖父のように早くから朝鮮に渡った者はそこでどん な仕事をしただろう。母のむかし話では実家がどれだ けの財産家だったかはわからないが、「おじいさんは 刀道楽で、虎徹などの名刀もあった」とか「日本の陸軍がうちに軍資金の入った鞄を預けていった」とか、 そういう話は今でも憶えている。
でも、個人事業の利益はたかが知れている。莫大な利益を上げたのは、土地の売買と移民を一手に引き受 けていた東洋拓殖会社と土地改良会社、それに穀物商 社だったという。それらの会社に融資をしていたのが、 父が勤めた朝鮮殖産銀行だった。
我が家のフアミリー文集に書いている父の手記によ ると、『大正三年(一九一四年)中学卒業当時は、次男たる者は宜しく海外に出ずべしという世論が盛んであっ たので、自分も海外植民地へと志し、今の拓大、当時 の東洋協会植民専門学校に入学し、大正八年(一九一 九年) に卒業して、朝鮮殖産銀行へ入行』したとある。 父は四国の田舎町の庄屋の次男坊で、田地田畑はそれなりにあったが、当時の憲法では家督はすべて長男 が相続し、次男三男は外に出るしかなかった。 ここでやっと父と母は顔を合わす。母は長崎高女を卒業して、元山の祖父方へ寄留していた。そこで殖銀元山支店勤務の父と邂逅した。
広辞苑によると「植民とは、ある国の国民または団 体が本国と政治的従属関係にある土地に永住の目的で移住し、経済活動をすること」とある。 当時二十七と二十一の父母の意識に、植民地で暮らすという自覚はあっただろうか。あるとすれば、わず か父の方に、お国の方針に従うという自負心があったくらいだろう。
大正十一年(一九ニニ年)二人は見合い結婚をし、 終戦までの二十三年間、父はひたむきに銀行業務に専念し、母は八人の子どもを懸命に育てた。忠州で暮ら したのは昭和十二年からの八年間だった。 津和子が小さいときに聞いた忠州の話は、豊かで華 やかでまばゆいくらいのものだった。お姫さまや王子 さまが出てくるおとぎ話のように聞こえ、兄や姉が羨 ましかった。乳飲み子で帰ってきた津和子だけがきら びやかな世界を知らない。それが口惜しい。 でも、日朝間の本を読んでいくうちに、その贅沢な暮らしは朝鮮の人々の犠牲の上に成り立っていたのではないかと思えてきた。その一方で、日本は朝鮮に鉄道を敷き、電気を通し、道路を建設して貢献をしたと主張する人もいる。
略奪したのか、貢献したのか、どちらが本当か。実際に忠州に行ってみるとわかるかもしれない。 二番目の姉からとつぜん人形が送られてきた。 それは津和子が「みんなで忠州へ行きたい」という 名目で、旅行積立預金に他のきょうだいの分も振り込 みをしているのを知ってのことだった。 「わたしは行けるかどうかわからないけど、あんたの 気持がうれしいので、新作の人形を送ります」 小さな便箋にそう書かれていたその人形はとても奇 妙なものだった。机上に置くのではなく、壁面に掛け る額のようなのだが、飾ってみるとクロスの壁から人面が盛り上がるように見える。
「何これ。デスマスク?」
そう思えるほど不気味で、人形ということばからくる可愛らしさはどこにもない。ただ、何かを主張しているようには感じられた。この姉は四人姉妹の中で、自分がいちばん母さんに似ていると自負している。嫁いだ先が家父長制そのままの旧弊な姑小姑付きの家で、壮絶な嫁いびりに耐えながらも頑張ってこられたのは、母さん似の根性が あったからだと自分で述懐する。津和子など想像もつ かない苦労があった。それだけに余計にいっしよに行きたい。糖尿病の夫 の世話も大事だろうが、今までの忍従の生活を顧みれば、二泊三日の旅行くらい許されてもいいではないか。
費用の一部をきようだいが肩代わりするといえば、頭の固い義兄も認めるのではないかと思って、津和子は余分に毎月旅行基金を振り込んでいた。次姉を『ビルマの竪琴』の水島上等兵にさせたくなかった。
「ありがとう。そういってくれるのはうれしいけど、やっぱり無理なんじゃないかな」
人形のお礼の電話をかけるとそんな返事が返ってき た。もしダメだったらお金は次兄にまわそう。そしたら、あの兄も行く気になるだろう。
「でも、あの人形の顔って、すごいね。いじめられた 姑さんへの怨念かなにか?」
きょうだいの誼みでそんなことを聞いてみたが、一 笑に付された。そうではないが、それに近い気持ちが 込められていたのかもしれない。
(3)
一九四五年八月十五日
津和子は朝鮮人の新しい乳母に抱かれて、オンドル の部屋で昼寝をしていた。オンドルは床に油紙が貼ってあり、冬温かく、夏涼しい。
次兄が目を怒らせて学校から帰ってきた。
「何でや!」
台所の水甕から柄杓で汲んだ水を飲んで、どたどた と応接間に行き、ソファに身を投げ出した。
「何で神風は吹かんかったんや。吹くっていってた じゃないか」
校長先生は毎月八日の大詔奉戴日に「神国日本は 最後には神風が吹く」と自信たっぷりにいい、みんなで戦勝祈願をした。
忠州市内に三つある国民学校で、本町小学校は日本人生徒ばかりだ。たった一人朝鮮の両斑の子がいたが、 そのほかの朝鮮人は慶北と桂林の国民学校に通ってい た。大詔奉戴日にはその二校も忠州護国神社にやってくるが、お参りの順番は本町小が先頭と決まっていた。 朝鮮人学校でも日本の教科書を使って、朝鮮人の先生が日本語で授業をする。名前も日本人風に改名した のは、やがて彼らも日本皇民になるためだった。 それが今朝の登校途中、朝鮮人の子どもが数人かた まって、「ニッポン負けた。ニッポン負けた」と囃し立てる。次兄は「何いうか」とにらみつけたが、いつもと違う彼らの挑みかかるような態度に不安を感じた。 天皇の玉音放送の後、「死ぬまで戦え」といっていた担任が、「わたしたちは内地へ帰ることになる」という。 裏切りだ。子どもはみんな戦うつもりだったのに、軍 人も校長も大人はみんなウソッキだ。
ソフアに、つつ伏していると涙が流れた。クッション をぬらしながら、次兄はいつしか寝入っていた。 赤ん坊の津和子はぐずぐずと泣いていた。お腹がす いたのではなく、不安な気持ちになったからだ。 家の外が騒がしい。夕方から夜になって騒ぎがいっ そう大きくなった。「マンセー、マンセー」という声が うねるように聞こえてくる。何かのはじける音もする。 「外に出てはいけません」という母さんの声。なのに次兄は晩ごはんの後、家をぐるりと取り巻く塀の上を伝って、朝鮮人街を偵察して報告した。 「母さん、大変だよ。すごい人が出て、日の丸の旗を 持って行列してるよ」
「ばかだなあ。あれは日の丸じゃない。太極旗という朝鮮の旗だ」
「ええ。朝鮮にも旗があるの?」
「みんな、お父さんが帰ってくるまで、オンドルの部 屋にいなさい。屮から鍵をかけるのよ」
「父さん、どこへいったの?」
「忠州中の日本人の男はみんな、町の映画館に集めら れているんだって」
「だいじょうぶかな、父さん」
「うちの父さんは銀行でも朝鮮人にやさしかったから、 きっとだいじょうぶよ」
「赤瀬くんのお父さん、警察の署長をやってただろう。 政治犯を釈放しろといわれ、後でピストル自殺したら しいぞ」
兄や姉たちが興奮した口ぶりで話している。
玄関を乱暴に叩く音がする。
「われわれは青年保安隊だ。この家には武器が隠され ているだろう」
廊下を駆け上がる靴音がした。気丈な母が応対して いる。
「あなたたち、履物を脱ぎなさい」
「何いうか。日本人にはもう何もいう権利はないんだ」 座敷の刀箪笥から十振りの日本刀が持ち出された。 応接間からオルガンや琴も、子ども部屋の空気銃まで 没収された。
津和子は激しく泣いた。次姉が抱きしめてくれるが、 なかなか泣き止まない。
夜遅く帰ってきた父がけわしい顔付きで二十歳の長 姉に告げた。
「すぐに頭の毛を切るんだ」
「いやよ。丸坊主になるのはいや」
坊主にはならなかったが二十歳の姉は短髪にして、 人がくるごとに押し入れにかくれた。 「みんなリュックに大事なものを詰めて持って帰るのよ」
母にいわれて、次姉は大きな人形を抱えた。 「遊びに行くんじゃないんだから、そんなものは置い て行きなさい。
姉は抵抗した。「絶対持って帰る……」。それを長兄がなだめた。「人形のお葬式をして上げよう」。日本へ 引き揚げる前日、奥の野菜畠に布にくるんだ人形を埋 葬した。「ごめんね、いっしょに日本に帰れなくて」。 津和子も盛土の上をなでながら、「ネンネ、ネンネ」と いって姉を余計に泣かせた。
忠州を去る日、忠北線の忠州駅は大荷物を抱えた日 本人家族でごった返していた。みんな逃げ帰る者ばかりで、見送る人とていない中、一人だけ若い朝鮮人が 駆け付けた。
「支店長さん、奥さん。お世話になりました。気を付 けて行ってください」
「ビンさん。ありがとう」
「坊っちゃんたちもお元気で」
ビンさんは銀行の小使いさんで、家の手伝いもよく してくれた。創氏改名で父はその人に水田ひろしとい う名を付け、「これからはビンさんといってはいけない よ」といったが、誰も水田さんという者はいなかった。 黒々とした貨物列車の窓から、津和子は無邪気に手を振った。
「バイバイ、ビンさん。またね」
(4)
二〇〇二年十月十三日。
東京、名古屋一、大阪、高松から飛行機に乗って、韓 国・仁川国際空港にきようだい八人全員が集まった。 前年、ニューヨークの貿易センターに旅客機が突入するテロがあったので、集合したロビーではみな「怖 かった」と手を取り合って再会を喜んだ。旅慣れして いないので、飛行機に乗るだけで異常に緊張する。 「お葬式には行けなくてごめんね」 津和子は次姉をみつけてまず謝った。昨年暮れ、店 のいちばん忙しい時期に姉の夫が亡くなったのだ。 「いいのよ。でもあの人、最期に女房孝行をしてくれ たわ」
病人の世話であきらめていた忠州へのきょうだい旅 行が実現して、姉の表情は明るかった。ぐずっていた次兄も皆にいわれて参加することになった。積み立て た旅行基金が役立った。
「ほら、見て。これが京城の秋の空よ」 空港からソウル市内のホテルに向かうマイクロバス で、在鮮期間が最も長い長姉が窓を見上げて声を張る。 「あんたが赤ん坊のとき疫痢に罹って、母さんがタク シー乘せてこの京城の病院まできたのよ」 「もう、その話は何回も聞いたって」 姉妹のやり取りにきようだいたちがどっと笑う。どの顔にも普通の旅行とは違う、子どもに返ったような 浮き浮きした表情が出ている。六十年近くも懐かしく 恋しく思っていた所に全員で来れたことで、満願成就 した歓びがあふれていた。
夜、ホテルから歩いて明洞や骨董店街をみんなで散 策する。日曜日は歩行者天国になるのか、通りにいろ んなパフォーマンスの人や屋台が出て楽しい。 「この時季だと焼き栗売りがいるんだがな」 むかしの忠州では、ねずみ取り器の金網の中に栗を入れ、炭火で焼いていたそうだ。今はトッポギやオデンの店が目に付く。
街を歩く若者たちの姿には、戦争とか占領の名残な どどこにもない。日本とはちょっと違った化粧の目立つギャルたちが、紅い唇をあけて笑い合っている。 長兄や長姉がかつて見た風景は、もうこの国では見られないにちがいない。
「ぼくらが忠州にいた頃、一度サッカーの日韓戦をやったことがあった」
ソウル市内の散策を終え、ホテルに戻ってロビーで くつろいでいるとき、長兄が周囲を見回しながらいつ た。ロビーの壁面には今年六月に行われたFIFAワ ールドカップ日韓大会の、韓国チームの活躍を撮った 大写真が貼りめぐらされている。日本はベスト十六だ ったが、共催国・韓国は堂々の四位で世界を驚かせた。 「へえ。そんな頃もプロチームがあったの?」 津和子はびっくりして尋ねた。
「いや。小学生同士の蹴球試合だったけどね。キミも 出たんじゃないか」
長兄はからかうように一つ違いの次兄を指差した。 終戦一年前、本町小学校でのことだった。 その年の六年生にはワンパク坊主が多かった。昼休みの運動場は六年生が蹴球ばかりして、下級生は危な くて遊べない。先生が注意しても直らない。そんなに元気なら対外試合をしてみたらと、慶北小に声をかけ た。慶北は朝鮮人ばかりの学校である。 土曜日の午後、試合は始まった。運動場の六年生も それを見守る下級生も、下流国民の朝鮮人に負けるはずがないと思っていた。
序盤は互いにボールの奪い合いが続いた。本町小の 攻撃はただゴールに向かって蹴るだけの単調なものだ った。それにくらべて慶北は正確なパス回しで本町を 翻弄し、疲れてきたところで怒涛のように押し寄せた。 「奴らはボールにへディングするんじゃなくて、わし らの顔や頭を狙って頭突きをかましてくるんじゃ」
本町小は一点も奪うことなく〇対九で惨敗し、慶北 は意気揚々と引揚げて行った。
「あのときからわしはイヤーな予感がしたんじゃ。戦争も負けるんじゃないか、みたいな」 次兄はワールドカップの写真を眺めながら、力なくつぶやいた。明日はいよいよみんなでその忠州市へ入る。
ゆうべ寝たのが遅かったせいで、翌朝バスに乘ると 津和子はすぐに眠ってしまった。ハッと目がさめ、窓外に視線をやると、車は都会の 街並みをはなれ、両側に田んぼが広がる田舎道を走っていた。遠くの野菜畠で農婦がひとり作業をしている。 車一台が通れるくらいの細い道が左右に延びていて、そんな道でさえポプラ並木がずっと遠くまで続いてい たc
不意に津和子の胸に懐かしいという気持ちがあふれ てきた。ポプラ並木は朝鮮独特の風景なのに、そういう景色を眺めるのも初めてのはずなのに、この田園風 景の中に身を置くと、きれいとか物珍しいではなく、ただ懐かしい思いでいっぱいになる。旅行をすると既 視感というのはたまにあるが、それよりもっと胸の内 を熱くするような心のざわめき。
どうしたのだろう。感傷なのか。
津和子はそんな自分の変化をいぶかしく思った。自 分がこの地で生まれた産土のせいだろうか。そうだとしても、たった一歳半でこの地を離れた赤子にそんな 感情が残るものか。きのうソウルに着いて、いろいろなものを見たり食べたりしたが、こんな気持ちにはならなかった。この農村風景は自分にいったい何を示そうとしているのだろう。
そんな感情に突き動かされているときに、後ろの方 からハーモニカの音色が聞こえてきた。すぐ上の兄が 吹いているのがわかった。眠っていたほかのきょうだ いも目をさまし、演奏を聞きながらバスの外の田舎の 景色に見入っている。
ふけゆく秋の夜旅の空のわぴしき思いにひ とり悩むーー
ハーモニカの音色はただでさえ哀愁を帯びるのに、この選曲はあざとい。津和子は鼻の奥がツーンとなり かけてくるのを感じて首を振った。
恋しやふるさとなつかし父母ーー
隣席の姉はバッグを引き寄せ、急いでハンカチを取 り出している。その向こうの兄も鼻をクンクンいわせ て落ち着かない。
この兄は中学生の時からよくハーモニカを口にして いた。津和子とは四歳しか違わないので、忠州の話ではいつも疎外感を味わっていたはずなのに、このパ フォーマンスは何の真似か。
夢路にたどるは里の家路ーー
淡をかむ音や咳をする音が方々でする。みんな泪でぼやけた瞳で川沿いの風景を眺めている。演奏はまだ続いた。これもまた、この兄なりのきようだい思いの行為なのだろう。
忠州市に入るとガイドは運転手に頼んでまず市庁へ 車をつけた。朝鮮動乱で市の大半は焼けてしまったが、 その後の復興はめざましく、庁舎の規模は意外と大き い。現在は二十五万人を超える人口を抱えているとい う。市庁で昔の地図を頼りに本町通りを探すが、見当 がつかない。若い女子職員に尋ねると、別棟の奉仕課 のような所へつれていってくれた。そこで大体の目星 がついたようで、上のきょうだいの先導で出発した。
「ああ、あの木……」 長兄が右手を伸ばしてバスの前方を指差した。みんな一斉に目をやる。最初に反応したのは長姉だった。 何の木なのか枝ぶりががっしりした大きな樹が二、三 本、小公園の鉄棒の脇に立っている。 「あれは郡庁の庭にあった樹よ。父さんの銀行は郡庁 のそばにあったから、この近くのはずだわ」 小公園にバスを停め、全員下車して朝鮮殖産銀行忠州市店を探す。だが、看板やポスターなどに漢字は一字もない。忠州という字もない。表記されている文字はすべてハングルで、これを読める者はきょうだいで一人もいなかった。ここで生まれ、少年少女期まで 育ったというのに、文字の一字も読めないし、簡単な 会話もできない。
津和子はなんだか、昼なお暗い密林の中に分け入ったような心細さを感じた。五十七年前まではそんな状 況の中でも、兄や姉たちは何不自由なく快適に暮らしていたということが、不思議であった。どうしてそう いうことができたのか。それが植民地の現実か。 こうなると日本語ができる中年のガイドだけが頼りだった。
突然「あった、あった」という声が前の方から聞こ えた。「この表玄関に見覚えがあるわ」という次姉の声 に、うながされて見やると、レトロというか、かなり年 期の入った小ぢんまりした事務所の入口があり、左右 両脇から三段の石段を上ると外扉がある。 「違いますよ。ここは証券会社で銀行じゃありません」
外壁のポスターを見てガイドが注意する。津和子には判断する記憶材料が全くないが、証券会社と聞いて ハテ?と首をかしげた。業種が似ているではないか。 次姉はおそるおそる正面の内扉を押し、中に入っていった。そしてすぐに引き返して、声を殺していう。 「お姉さん、兄ちゃん、早くきて。ここ、そうよ。 だって父さんの座っていた椅子があるもん」 エエ!と声にならない声をあげ、みんながいっぺ んに建物の内部になだれ込んだ。視線の位置がやや腰 高な感じの窓口にいた女子事務員が、驚いた表情でこ ちらを見た。
奥行きはあまりないが、天井が高く、照明が薄暗くて、昔の銀行の雰囲気は感じられる。中段に男性社員 一人と、奥の正面に支店長らしい男の人が、肘掛けのついた椅子に座っていた。
「本当だ。父さんの椅子だ」
上のきょうだいたちが互いに体をつつきながら嬉しそうにいう。男性社員が何事かと緊張した面持ちでやってきた。あわててガイドが事情を説明する。その 間にも兄や姉たちは無遠慮に室内のあちこちを指差しながら口々につぶやいた。
「父さんの席の後ろの金庫はそのままだわ」 「いつも裏口から父さんのお弁当を届けにきたの」 「あのドアの向こうは土間の食堂だったね」 「そうそう。玉突き台が置いてあった」 「いや、卓球台だったよ」 奥の肘掛椅子から支店長らしい男が立って、ガイド の方に近付いた。クレームをいわれるのだろうと津和子は身構えた。
話し終えたガイドが長兄に説明した。
「ここは証券会社のオフィスですが、昔は銀行だったそうです。皆さまのことをいいましたら、奥の部屋も 見学していいとのことでした」 ワーツと安堵と感謝の声が洩れる。 お言葉に甘えて脇のドアから裏に回ると、がらんと殺風景な土間があった。
「あ、ここでビンさんに遊んでもらった」
「この窓から見える裏庭ににわとりを飼ってる家が あったな」
記憶とはおもしろいものだ。頭の中でかたまってい た塊がひとつ溶け出すと、また次の塊が現われる。 それにしてもよく残っていたナと津和子は感嘆した。 市の大半が焼けたというのに、七十年以上前に日本人 が建てた殖産銀行の社屋が、今なお使われていようと は。「父さんに一目見せたかったネ」は、きょうだいみ んなが思ったことだった。
(5)
銀行はわりとすぐにみつかったが、一家が住んでい た家をさがすのは簡単にはいかなかった。 手がかりは、南向きの座敷の縁側から東南の方向に煙草専売公社の煙突が見えたということだけ。ほどなくその煙突は見つかった。しかし、専売公社はあるのだが、周囲が変わってしまっているので、この近くのはずなのに、核心に行きつかない。老人のいる家を訪ね、お婆さんに尋ねるがわからな い。あの煙突の位置から見てもうすぐそこなのに、核 の周りをうろうろするもどかしさ。
決め手はテニスコートだった。
これだけ町の様子が昔と変わっているので、まさか 家の横にあったテニスコートなど潰されていると思い 込んでいたのだが、通りかかったおじいさんに試しに 聞いてみると、近くにあるという。教えられた角を曲がると、ポーンという澄んだ硬球 の打球音が聞こえてきた。
下の姉が以前こんな作文を書いていた。
『夏の終わりがけの夕方。茶の間の円く大きな食車に 夕食が並び、母にお父さんを呼んでくるようにいわれ た私は、家の横のテニスコートに行った。赤い夕陽の 映えるコートからポーンポーンと軽いボールの音が響 いてくる。「父ちゃん、ごはんですよ」と大声で呼びか ける。若い行員とテニスに興じていた若い父さんの姿が、映画の7ンーンのように浮かぶ』
当時七歳だった姉の目に焼きついたテニスコート。 それがそのままの姿でそこにあった。よじ登って遊ん だというローラーまで。
十人家族が住んでいた和風の家は鉄筋三階建ての独 身寮に変わっていたが、屋敷周りにあった樹やブロッ ク塀などは昔のままだという。五十年以上もの時を経て、奇跡的に残っているそれ らを見て、兄や姉たちはことばも出ずに立ち尽くして いる。
そうか。これが我が家か。ここに一家は住んでいた のかと、津和子もしみじみ周囲を眺めた。あのポンプ小屋で兄たちが鷹をつかまえた。あの銀杏の樹の下で 姉は落葉に埋もれて遊んだ。今も黄色い実をつけてい る杏の木には、朝鮮の子らも採りにきていた。 この敷地の内側で、ニッポンの坊っちゃん嬢ちゃん はぬくぬくと育った。一歩塀の外に出ると、そこには 藁屋根の粗末な家に、お腹をすかせた朝鮮の子どもたちがいて、塀の中から漂ってくるおいしそうな匂いに鼻をひくつかせ、うらやましげに見ていた。その姿は 子どもの頃の津和子そのものであったにちがいない。 これが忠州の家。幼い頃、兄や姉からさんざん聞か され憧れていた昔の我が家。
「そうよ。ここよ。ここに埋めたのよ」 八重桜の向こうで次姉が声を上げた。つられて皆が 集まると、野菜畠を指差している。引揚げの前日、大 切にしていた人形をここに埋めたのだ。 「あんたがネンネ、ネンネといって土をかけたのよ」 姉にいわれて津和子は畠の畝を見つめた。もちろんそんな記憶はないが、畝の土の盛り上がりを見てハッ とした。昨年姉が送ってきた自作の人形、デスマスク のような面容と、畠の土の凹凸がそっくりに見えた。 まるで今もこの下に人形が眠っているかのように。
その夜はフレンドリーという名の忠州市のホテルに 泊まった。夕食はそこのレストランで海鮮鍋をつついたが、絶品であったのに、みんな味もわからぬくらい 興奮している。
ここで鮮明になったのは八人のきょうだいの中でも、 忠州組と四国組の二手に分かれることだった。朝鮮でいい思いをした上の四人と、開拓貧農生活をモロにか ぶった下の四人とでは、忠州の印象が自ずと違う。 津和子は自分が末っ子の甘えん坊であるせいか、上 四人に妬みのような思いを抱くことがある。自分の知 らない上流生活を体験したということが妬ましい。若 い父母に抱かれたことも妬みだった。さらに今夜のよ うに上四人のはしゃぐ姿が癪の種にもなる。 津和子とすぐ上の兄はほとんど話の輪に入れないで いた。はしゃぐ兄や姉を横目に、下の者同士でかた まってぼやいていた。
「兄ちゃん。きょうのバスの中で、何であんなハモニカを吹いたん?」
「そりゃ、みんな忠州がふるさとなんじゃないかと 思って、盛り上げてやろうとーー」
わたしは違うよ、と津和子は即答した。みんなもそ れは違うと思う。
上の者は在鮮期間が長いし、思い出もいっぱいある だろうが、だからといってここがふるさととはいえないのじゃないか。十五、六歳で引揚げた者にとって懐 かしい場所には違いない。でもそれは借り物というか、 根差した所ではない。どこか後ろめたい気持ちも混 じっているような気がする。
「半分のふるさと、ということかな」 兄はどこかで聞いたようなことをいった。 わたしにとって忠州とは何なのか。きょうだいに とっては何なのか。両親を含めうちの家族にとって忠 州とは何だったのか。津和子は考えようとした。 持ってきたウィスキー一本では足りないくらい、夜 遅くまでみんなの話はキリなく続いた。
翌朝の朝食会場に次姉は降りてこなかった。頭が痛 いらしい。ゆうべしゃべり過ぎ、飲み過ぎたのだ。
きようだい旅行も今日でおしまいである。あれほど 長い間みんなで忠州に行きたいと願っていた旅行も、 終わってみればたちまち過去の出来事のひとつになっ ている。
朝食後、最後にみんなで本町小学校跡に行こうとい うことになった。日本人子弟ばかりが通っていた国民 学校で、今は町の公園になっているという。 ここは懐かしい風物はあまり残っていなかった。敗 戦一年前の日韓小学生サッカー試合をした運動場もな い。それでもこの学校に通った兄姉は、どこかに思い 出のかけらでも見つけられないかと、周囲に目を配り ながら歩いていた。
津和子にとっては何の思い入れもないので、一団の 最後列をぶらぶらついて行くと、前方で長姉が何か しゃべっている。韓服のようなチヨッキを着た地元の老人と話しているらしい。物怖じしない性格なので、 昔ここに住んでいたとでもいったのだろうか。 急に老人の態度が変わった。両のこぶしを握りしめ、韓国語で怒鳴り出す。意味はわからないが、激しい怒りの感情は伝わってくる。日本人の感傷旅行が気に入 らないのか、姉のことばの中に地雷が混ざっていたの か、ことばが理解できないので、どのように扱ってい いのか、津和子はただ怖くて、兄の背に隠れていた。 戦争に負けた日もこんなだったのだろうか。
ほかのきょうだいがもてあましている時、次兄がふ らふらと老人に近付いた。この兄は、子どもの頃川の 堤に遊びに行き、釣りをしていた朝鮮の子から釣り竿 を取り卜げて自分で釣りをした。抗議をする子に下駄を振り回しておどしたという、きょうだいきっての乱 暴者である。今朝も朝からビールを飲んでいた。けんかにならな ければいいがと心配して見ていると、次兄は老人に向 かって何やら話しかけ、軽く頭を下げている。すると、それまで怒っていた老人が態度をやわらげ、顔を横に 向けて歩き去った。
「わあ。兄さん、すごい」
「いま何ていったの」
妹たちの喝采に兄は照れたような、得意なような笑 みを浮かべて、ぼそっとつぶやいた。
「ハラボジイ....ミヤネヨ..」
「ふうん。それって、どういう意味?」
「いやあ、わしもようわからんけどな。子どもの時に いうとった朝鮮語が急にぽろっと出てきたんよ。どういう意味だったかもわからずに。何でもええからいうてみた」
酒臭い息を吐きながらそうい い、みんながどつと 笑った。そんなことってあるだろうか。
でもまあ、大ごとに到らずにすんだので、一同ホッ として帰途についたのだが、ホテルにもどる道すがら 津和子は今の出来ごとについて考えていた。 老人は我々が日本人とわかって怒り出した。年齢的 に見ても、日本の植民地時代に少年期を過ごしている。 その頃の怨みの思いが我々を見て噴き出したのではないか。
うちの両親は忠州にいる間、特に朝鮮人をいじめた ことはないらしい。父さんは朝鮮人行員にも親切にし た。だがあの老人からすると「それが何じゃい」ということなのだろう。母さんはオモニにも大金の退職金 を与えた。「だから何だというんだ」というのかもしれない。 そんなことで済んだと思うなよ。お前らのしたこと は末代まで忘れはせんぞ。
聞きとれない老人の韓国語はそういっていたのでは ないだろうか。
きたときと同じように、きょうだいみんなとは仁川 国際空港でお別れした。二時間あまりのフライトの間に、津和子はひとり今 度のきょうだい旅行について考えた。
忠州はあこがれの地だった。小さいとき、食べる物 も十分にない時代に、山の家の掘りごたつで聞いた忠 州の話は、津和子をおとぎの国へ つれていってくれた。その国を実際に見る感激。父の勤め先や家族が住んで いた家屋敷跡を発見して、兄や姉の流した涙。それら は甘く切ないノスタルジーの世界へ いざなうものだっ た。だが、それだけでよかったのだろうか。それはこち らの一方的な思いではなかったか。今度の旅を通してあらためて感じたことがある。
津和子たち八人きょうだいは、母方の曾祖父の代か ら朝鮮の国とかかわっている。曾祖父は大陸浪人の亜 流として渡鮮し、財を築いたのではなかろうか。父はそういった在朝日本人相手に資金を運用する銀行で働 き、津和子たちを養った。
自分たちはテニスコート付きの邸宅に住み、まわりの藁葺き屋根の家には地元の朝鮮人が住んだ。きょうだいたちが日頃接していた朝鮮人は銀行の小使いのビ ンさんであり、家の家政婦のオモニだった。いわゆる 使用人・下婢といわれる人たちである。
津和子には朝鮮人を差別する意識はない。と自分では思っている。だが、ほんとうにないか。忠州に向か うバスの中で経験した、初めてきた土地なのに懐かし いと思う心と同じように、差別はしないと思っている のに三代にわたる祖先の血流から、自分ではそれと気 付かぬうちに差別していることはないか。彼らに怨の思いが今も伝わるように、我らの内側にも侮りの連鎖 が流れてないか。行きたいという思いだけできてしまったが、忠州の人たちは我々をどう思っていたのだろう。再訪する前 に、もっと何かをしておくべきではなかったか。 そんなことを思い浮かべているうちに、飛行機はも う日本に到着していた。ほんのひと飛びの距離しかない両国だが、考えるべき事柄は山ほどあるようだ。津 和子は大きく溜息をついた。
三日ぶりに帰ってきた日、日本のテレビはどのチャ ンネルに合わせても、北朝鮮から帰国した拉致被害者 五人のニュースで沸き立っていた。
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