ハワイに長く住んでいますと、日本では決してお目にかかれない人々に思わぬところで出会ったりします。世界初のクローン・マウスを製作することに成功したハワイ大学名誉教授の柳町隆造博士はじめ各界の人々との出会いがありましたが、その中でも驚いたのが2018年の「ハワイ日系移民150周年記念大会」で会った日本マチュピチュ協会の会長を務める野内
(のうち)セサル良郎さんでした。彼のおじいさんが初代のマチュピチュ村の初代村長さんだったというのです。インカ帝国の空中都市・マチュピチュは学生の頃から一度は訪れたい憧れの場所だっただけに「えー、初代村長が日本人?」。どういうこと? 彼は16歳の時にペルーから日本に出稼ぎに来て、工場勤務をしながら日本語を習得したとかで完璧な日本語を話します。興味津々でいろいろ質問しました。さらに不思議な偶然(?)が出てきてびっくり。
(のうち)セサル良郎さんでした。彼のおじいさんが初代のマチュピチュ村の初代村長さんだったというのです。インカ帝国の空中都市・マチュピチュは学生の頃から一度は訪れたい憧れの場所だっただけに「えー、初代村長が日本人?」。どういうこと? 彼は16歳の時にペルーから日本に出稼ぎに来て、工場勤務をしながら日本語を習得したとかで完璧な日本語を話します。興味津々でいろいろ質問しました。さらに不思議な偶然(?)が出てきてびっくり。
マチュピチュの遺跡を発見したのがハワイで生まれ、名門校Punahouスクールを出た考古学者・ハイラム・ビンガム。そのおじいさんは最初の宣教師としてハワイに派遣され、サンゴ礁で出来たハワイ最古のカワイアハオ教会を建てたというのですから、話がなにやらこんがらがってきました。
や草木に覆われたマチュピチュを発見した。映画の「リアル・インディー・ジョーンズ」は彼の物語だそうです。
さて、もう一方の野内さんです。良郎さんのおじいさんは野内与吉(よきち)さんという人で福島県安達郡大玉村出身、1917年に「海外での成功」を夢見て契約移民としてペルーに渡ります。最初は農園で働いていましたが、その後インカ帝国の首都だったクスコからマチュピチュまでの鉄道建設に関わりマチュピチュ近くに移住。44歳の時に区の行政責任者に任命され1948年から区が村に昇格するとともにマチュピチュ村の初代村長を2年務めることになりました。そして1981年から2年間は与吉さんの二男のホセ野内さんが村長に。
与吉さんが村長になった時は、ビンガム氏が遺跡を発見してから37年後のことですから2人の出会いはありません。しかし、与吉さんが1935年に3階建ての木造建築「ホテル・ノウチ」を建て、その一部を郵便局や交番に、また2階部分は村長室や裁判所として村のために役立てたそうです。人の集まるこの「ホテル・ノウチ」が中心となってマチュピチュ村は発展してきたと言っても過言ではなさそうです。良郎さんは「祖父が作ったマチュピチュ村に貢献したい」との思いから日本マチュピチュ協会を設立したそうです。
なんとなくハワイとペルーと日本の3つが繋がりました。一本の直線という訳にはいきませんが、ハワイ最古の教会を作った人のお孫さんが、ペルーのマチュピチュを発見し、そこの初代村長さんが日本人だった。何故か私は嬉しくなりました。こんな時は「ハワイならではの出会いだな」とこっそり一人ほくそ笑むのです。
木曜午餐会会長 新名 瑛
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