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私にとってのアフリカ

<第1章>始めての旅立ち

 もうあれから52年になる。


1969年の東アフリカは独立後
10年、やっと治安も安定し、旅行客も著しく増え始め、日本からも色々な形で沢山の人がなだれ込み、そんな中の一人 私もいた

 子どもの頃、少年ケニヤや動物の絵本を見ては憧れに近い気持ちを抱いたままいつの間にか20数年たち、忘れるともなく忘れていた感情が突然甦り、憧れが行ってみたい、よしっ、行ってやろうに決意。

まず手始めは言葉だと、当初日本に一つしかなかった三鷹のアジア・アフリカ語学院の夜間に週3日、人形町の職場から電車、バスに乗り換え2時間の道のりを1年間通ったものである。東アフリカの共通言語スワヒリ語の基礎を学び、行ってしまえば何とかなるさ式で、職場も辞め、アパートも全て引き払い、9月下旬  生まれて初めて機上人となった。

  今でこそ、老いも若きもグループや友達とひょいひょい気軽に海外へ飛び出すが、当時は空港の至る所でお餞別付きの 万歳三唱、1週間足らずの旅行に泣いたりして別れを惜しんでいる風景がざらだった。私もその例にもれず、友達数人から花束を贈られ、もう2度と会えないような大袈裟な別れ方をした旅立ちだった。

 国内の放浪の旅は何回かしていても海外は初めて、友達の前では平気を装っていても内心は心細い限り。英語はわずかしか喋れないし、機内はどうなっているんだろうとか、いらぬ心配も口に出せず、うわの空で雑談しながら、不自然な笑いでやせ我慢をしていたような気がする。内心緊張しながら税関をくぐり、搭乗時間待ちでも気分的に落ち着かず、コーヒースタンドでコーヒーを注文。スタンドのおじさんとの会話のあれこれに気分が高揚、出発時間の事などスポッと抜けてしまい、「アテンションプリーズ、アテンションプリーズ、コダマカズコさん、ゲイトナンバーまで急ぎ来るよう」との放送にびっくり。   

 大型バスにたった一人乗せられ、既にエンジンが作動し乗客も着席してる中に誘導された時の恥ずかしさ、穴があったら入りたい!体中が火の車!、スチワーデェスから何を言われたのかも全く頭に入らなかったのを未だ鮮明に記憶している。そして機が浮上する時、安全ベルトを着帯しつつ両肘掛けに思いっきり力を込めて必死に掴んでいた事も。今度々旅行する度に思い出される可笑しみである。

 機上する人皆、如何にも場慣れしているかのように平気を装っているが、初めて搭乗した時の心境など機会があれば伺いたいですね。 

<第2章>(ケニヤ着)  

  アフリカ・ケニヤの首都ナイロビまでは、ボンベイ一泊経由で約22時間もかかるものの日本との時差はたったの6時間。標高1650メートルの高地にあり、じっとりとした湿気が無く不快指数ゼロ、空気は実に美味しい。空は限りなく透明で、薄空から卵色の柔らかな満月の光の中に、低い灌木が所々に見える見渡す限り茶色い平地に、管制塔であろう建物が、耳鳴りの痛さとともに大きくなりガ、ガーンという響きと共に、ついに念願だったアフリカの大地に一歩を踏み入れた。

 「ジャンボ!」まず税関でおっかなびっくり口に出してみる。そしたら大きな目で口をにっとほころばして「ハバリ!」、応えて「ムズリ!」・・やった~、通じた、、。「君は日本人か」「ええ、そうです」「スワヒリ語が話せるのか」「少し日本で勉強した」「アフリカは好きか」「ええ、大好き」確かこの様なやり取りから旅が始まったと思う。

(喜びもつかの間)タクシーで1時間位のダウンタウンに安いホテルがあるとタクシーの運転手に言われ、ガイドブックや人からの情報で、ぼられるから気を付けるようにとの注意を早速思い出し、英語とスワヒリ語のちゃんぽんで料金の交渉。2,3回の駆け引きで特別に負けてくれるとの事、してやったりと喜んでも実際はかなりぼられていたのが後で判明。インド人経営のホテルにリュックを置いてやっとこさ落ち着いたのが朝の10時過ぎ。そのまま午後時過ぎまでぐっすり。さ~、これから暫くは体になじませるための散策に歩き回ろう季節は10月、夜はカーディガンが必要ですが夏の軽井沢と同じ位で、湿気が無い分歩き回っても汗をそんなにかかず、衣類の少なくて済むのがありがたかった。

  東アフリカには、約50種族が住んでいると言われる。大統領だったケニヤッタの出身は、主に商業中心のキクユ族。広大なマサイランドに住む牧畜民族のマサイ族、カンバ、ルオー、ズール族など言語習慣が皆違い、共通語がスワヒリ語である。だが、商業を営んでいる大半は白人で、インド人、キクユが占めているとか。それとどんなお年寄りでも、部族語、近隣部族語、スワヒリ語の各語は話せるし、しかも宗教も統一されてない分、発展しきれない複雑な問題を抱えていたようです。

 (当時のナイロビ市)

 ナイロビ市内は、英植民地時代の名残を留めた英国風の建物が多く、道幅が広い割には車の数も多くなく、信号はたった  一つだけだった。しかもやたらと公園があり、ブーゲンビリアやジャカランタの咲き誇っている美しい街並みであるが、殆どの現地人に花の色 を問うても一色しか言わず、色彩感覚に疎いのか環境のせいかよく分からずじまいでした。 


近代的な市内から
マイルも郊外に出るともうそこは野生地帯、舗装された並木道を平服の町の人々に混じって、
毛布一枚で槍をひっさげたマサイ族や全財産を体に巻き付けた刺青ばあさん、ぼろ雑巾のように千切れた服をまとっている裸足の子供、牛ッ車からの糞の落とし物など、夜にはハイエナが出てきたり楽しい場所である。

  インド人経営の私の仮の住まいは、ダウンタウンをず~っと下がって道路も全く舗装されてない場所にある安ホテル。シャワーは共同で、当時の貨幣で一泊1シリング(当時の換算レートで50円)。窓にカーテンなどあるはずも無く、男女とのむつみ事が諸に見え、又見られていても平然としており、目のやり場に困りつつ、ちらっと覗き見していたのも確か、興味津々だったのを覚えている。

  所持金はドルで800㌦がアフリカ滞在の総費用、到着早々からアフリカンマーケット(スワヒリ語でソコ)で食料買い出しの値切る楽しさを覚えたから、私の好奇心に火が付き、飽くことなく出かけては、通じてるか通じて無いのか分からずの会話を楽しんでは、どさっと買い込んで自炊をしたものである。包丁もまな板も無いからお皿とスプーンを借り、お皿の糸尻が俎板代わりで手持ちの切り出し小ナイフが大いに活躍。借りたアルミ椀一つで煮炊きをし、栄養のバランスを考えながら何品も作ったものである。 

 (住民の生活スタイル)      

 ここの住民の食事は、朝は薄いチャイ(コーヒーにたっぷりのミルクとお砂糖を入れたもの)とウガリ(トウモロコシの粉を練ったもの)が常食、それに豆の煮た物やまれにチキンが付く程度。生の野菜は消して食べず、食べたとしてもくたくたに煮込んでまず魚は食べない。大人から子供の殆どが、おなかの下腹部が異常に膨らんで栄養失調になっているのがありありと分かる。不思議なのは、人種的骨格による違いがあるのかもしれないが、特にマサイ族の若者達のスラーっとカモシカのような足で、男女ともお尻の位置が高く、出るべきところは出、締まるべきところは締まって均整が取れてる。周りから身長やウエストを煽てられていた私ですら羨ましい体つきであった。

 さらに面白い事に、華やかな模様やフリルのワンピースなど来ている女の子や婦人に限って売春婦とか。売春を職業ととらえているのか、卑しいとも恥ずかしいとも考えていない証拠に、白人の子供連れでも「これは私の子供よ、彼はもう居ないわよ」と仲間中で話興じてはあっけらかんと笑っているのである。誇らしくさえ思っているようで、抜けるような青空と同じ爽やかな表情で実に明るい。

(モラルについて)      

 だからといってモラルが乱れているわけでは無い。むしろ現代の日本より厳しいしきたりの中で育っている うである。村の長老の権限は絶対で、子供や大人、既婚と未婚の役割が決まってい、時間管理や行事、食事時や挨拶のマナーなど結構手厳しい。私がキクユ族の部落に滞在した時、部落の女性たちより胸が小さいだけで?少女扱い、朝から夕方までジャガイモの皮むきと、ベッドメイクの手伝いを暫くさせられたのには閉口したものである。

 又、SEXに対しても日本と根本的に違っている。日本は仏教の影響であからさまではないが、こちらはどうも違うよう。若者同士のメイクラブがお互い了承すれば、行ずりの者であろうが他部族であろうが良いとか。回で別れても平気、一緒に住んでもよく、嫌になったら分かれるだけとか。だから友達にも平気でベッドを提供するし、集まって2人消えようが5人消えようが、目前で愛の行為をしようが、皆関心を払っていない。ただし結婚は親が許した人か、親が決めた許婚者としかしないとか。間違って産み落とされた赤ちゃんでも、地域種族全体が子育てをする社会で、絆が非常に強く家族を大事にする。背景には、過酷な土地での生活、比較的短命で種族の維持につながっているのかも、、。      

  


正直、時代的考察でいけば、多分東アフリカ民族の慣習は、日本の明治時代と同じ位置づけに相当されるだろうか? このモラルや道徳に関しての教育をされ育った結果、個人主義に根差した思いやりの精神は現代の日本より優れており、日本ははるかに後れを取っているのをつくづく感じた。日本も物質文明では西洋の比ではなくなりつつあるが、精神文化の神髄を浸透させていくには大幅な時間が必要のようです。 

(想像を超えた体験)

 数カ月ほど、ケニア、タンザニア、ウガンダの東アフリカ3ケをぶらつきまわった。その都度、味わいたくても味わえない恐怖、不安、驚き、感動や喜怒哀楽の貴重な体験を重ねた。ホテルで知り合ったカップルとその友達とかいうインド人男性の家に誘われて遊びに。英語やスワヒリ語ごちゃまぜでの会話で瞬く間に夕方になり、そしたら二人のカップルが。。とか言って席を外した。いつまでも戻らず、私も帰らねばと彼に伝えたら、今までの紳士的で友好的な態度がガラッと変わり、私の歩き姿を何回も見て友達になりたかった、とかで、自分の彼女になってくれと懇願され、断ると突然襲い掛かってきた。びっくり仰天して逃げ出そうとドアに走り寄ったが、キーがかかっていて開かず、ドアをガンガン叩けども誰も来ずで、パニックになりかけた。にやついて近ずいてくる彼を必死で拒んで2~度逃げ回ったものの、彼の表情は増々凶暴に。再び襲い掛かってきたとき中で急所を足蹴り、悶絶する彼をすり抜けて大声で助けを呼んだ。そしたら何処からか声がして、ガチャっと鍵が外れてドアが開いた。今だに思い出すだけでぞっとする。

  ある時、私が荷を解いて泊まっていたキクユ族部落の若者と数人でディスコへ。踊っていたら突如、真黒なシェパード匹が飛び込んでき、その後を数人の警官が、、ウーっと頭を低くして今にも飛び掛かりそうな気配に皆足がすくんで動けず。皆一把一絡げで、警察犬の唸りにびくつきながら数人の女性陣と男性陣に分かれ牢屋に。パスポートを持参してなかった私は、警官に日本人と訴えても知らん顔をされ、何と日間入牢。3日目に、泊まっている部落の長老が迎えに来て無事解放された。何でもヨーロッパから売春婦が流れ込んでおり、どうも間違えられたらしい。3日間近く、独特のすえた匂いと痒みに殆ど眠れず、まずいウガリ(食事)には閉口したものだ。今でも思い出すと、おぞましくなる。

 


マサイ族の牛糞で固められた住まいで5日ほど泊まる。いかにマサイ族が牛と共存してい、愛し大事にして
いるか痛感。牛の乳しぼりや食事の世話、子育てや燃料となる馬糞拾いは女性の役目、男性の若者は12~15歳頃になるとモラン(戦士)となる試験を受け、合格すると狩ができる。又、エチオピアの北西部にあるタナ湖では、ジャンボという巨大な一匹像と出会い追いかけられたり、青ナイルの源流を感嘆しながら見学と様々な体験をしたが、一番閉口したのは、何処へ行っても物珍しい見世物を見るように、杖をついて何マイルも歩いてきたお爺いさんや皺皺のお婆あ達が、飽くことなくじーっと見つめており、まるで檻の中の猿のような気がしたものである。

K /Kazuko


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