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私にとってのアフリカ

<第3章>

(陸路でエチオピアに)

 ナイロビとエチオピアの首都・アジスアベバまで、飛行時間は約45分。陸路ではケニア北部の村キタレからエチオピア側のモヤレという所まで全く道がない。

  私の所持品は、下着枚、替えブラウス枚、セーター枚、スカート枚、ジーンズ着、サファリジャケト、大布、トイレットペーパー、選択紐、さらし、ナイフ、輪ゴムと、リュックの中はいたって軽装。私と一緒に無謀な旅をしたいというナイロビで知り合った若い女性と、期待と好奇心、不安をごちゃまぜにしながらナイロビから現地人の乗り合いバスの乗客となった。 

 このバスたるや塗装は剥げ、車体はデコボコ、窓ガラスはあちこち壊れ、乗車するバスの


ドアを車掌らしき人が何度か足で思いっきり蹴飛ばしてやっと締まる。
椅子も堅くあちこちのシートは破れ、中には壊れて使い物にならない座席もある始末。深みに車のわだちが掴まると、ブーブーガーガーの音ばかりで動かず、皆が降りて押すありさま。日本のデコボコした田舎道よりもひどい路線を、乗車する現地人が増えるにつれ、不思議なほど愛着を感じ、今度はどんなハプニングがあり何が待っているのかワクワクしている私がいた。

よく見ていると、実に多くの種族が入れ違いに乗り降りしてくる。乗車した途端、今まで履いていた牛皮のサンダルを脱いでおもむろに懐にしまうお婆さん、顔見知りなのか乗るなりべちゃべちゃお喋りに興ずるおばさん連中、珍しい動物を見るように我々から片時も視線を外さない男性、関心なしと全く無視してたばこを吸い続けるおじさん、興味津々話しかけてくるおばさん、カーキ色か迷彩色かわからぬぼろぼろのシャツを着たおっさん、どれも個性があって楽しい。

バス停などあるはずも無く、運転手の知り合いや用事があると勝手にバスを止めて用が終わるまで、乗客誰一人うんでもすんでもなく動き出すのをひたすら待つのみ。短気ではとても乗っていられない。バスの屋根には、乗客の生活必需品から大型のペットや鶏がぎっしり、その中に我々のかわいいリュックがつ。こんなおんぼろバスの何処に力があるのかと思うくらい時々すご~いモーダッシュ、椅子からお尻が飛び出して掴まっているだけがやっとの状態で走り、屋根の荷物が振り落とされてもお構いなし、幸い私たちの荷は無事だった。





 
第一日目はイシオロにで宿泊。とても街とは呼べない道の左右に赤粘土で作られた数件の家の一つに、バーらしき家の後の土塀の家が今宵の宿で観音開きの窓が一つあるきり。我々が余程珍しいのだろう、子供から老若男女に至るまで、窓からのぞき込んで一挙一動を穴のあくほどじーっと眺めているのである。

 バスの中で、背中や衣類に受けたノミの歓迎を早くなんとかせねばならず、ローソクとマッチを身振り手振りで交渉して手に入れ、電気もなく剥げて錆びたベッド一つだけの部屋を締め切って、二人とも裸になってノミ退治に専念。縫い目にびっしりついていたのには怖気(おじけ)だった。現地のまずいパンとおみかん1個づつで済ませ、その夜は死んだようにぐっすり、、。

  

 宝石箱のような星空の美しさと鮮やかさに反し、本当の困難はこれからだった。唯一の交通手段であるトラックが3日ぶりにケニア側のモヤレ(国境の町)に行くというので、慌てて駆けつけて交渉。

 このトラック何時発車するのやら、ぐずぐずするばっかりで、やっとエンジンがかかったのが4時間後。トラック後部には、壊れかかったテーブルや鉄製のベッドの足枠、ヤギ、鶏、岩塩、現地人、我々とごちゃ混ぜにしてフルスピード。動物の糞尿や現地人の異様な据えた匂いに悩まされながら夜の闇に。野生動物の目が光り、我々の「ヒョウだけまだ見て無い」に、そのうち誰かが「テュイ、テュイ」と叫んだ。「ワピ?」と手をかざした方を懸命に見たが一向に見えない。数分後、岩の上にジェントルマンもどきに悠然と構えている動物、「あれがヒョウ?」に「そうだ」と言う。

 現地人の並みならぬ視力と勘にびっくりしつつ、岩塩に横たわりながら澄み切った夜空から降り注ぐ宝石に心奪われ、手を伸ばすと届きそうな近さに星のきらめきがあった。


途中、トマト売りの子供から小粒のトマトをビタミン代わりにと買い、よく拭いて食べたその1時間後、凄い腹痛に恥も外聞もなく止めてもらってトラックの陰に。群がってくる子供たちに干渉されながら、しゃがみこんでの急行列車、キテンゲという現地の大布を慌てて腰に巻いていて難をのりこえた。毎日何かしらのハプニングに、現地人は結構楽しんだのでは、、。

 

(ケニヤ側モヤレ)

  やっとケニヤ側のモヤレにたどり着いたときには、ノミ、シラミ、南京虫と腹痛の連続ですっかり疲れ切って顔はすさんでおり、体中掻いたところが化膿して血がにじみでてい、足は像みたいに膨れ上がり、やっとこさ歩いている状態だった。

  村とも呼べない村に1件だけインド人経営の店があり、食堂らしき家の裏が宿泊できるとかで、宿での虫駆除作業を終えてやっと体を横たえた記憶がある。薄暗いインド人の店は、ごちゃごちゃわけのわからぬものが雑然と散らばり、賞味期限など無縁の缶詰類や得体のしれないペットボトル類が棚に積み重なっている。殆ど紙類が無く、ごわごわのざらしのトイレットペーパーが異常に高く、二人とも交渉に失敗、やむを得ず1つのロールを二人で分けて使うことにした。亭主たるや、皺だらけの顔に眼だけ異様に暗がりに光って、最初ぞくっと背筋に悪寒が走ったものだ。

 ここで、アフリカ紙幣のシリングをエチオピア貨幣に両替するしかない。ごまかされぬよう計算したにもかかわらずごまかされ、なじると、皺の多さに表情がさっぱりわからず、たむろしていたインド人達からも当然という顔で手を振られやり過ごされてしまった。

 

K/和子

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