会員からの投稿
私にとってのアフリカ
(国境のイミグレーションで)
ケニヤ側ボーダーのイミグレーションでのあの嫌な記憶を今でも思い出す。出国カードを忘れ、にこにこ笑って謝ったが「ここからナイロビに帰れ!」と言われ、スワヒリ語、英語、日本語ちゃんぽんのジェスチャーで切り抜けようとしたが、頑として聞き入れない。
思案にあまり何気なく机の上を見ると出国カードがあるではないか。「この場で記入してもいいのですよね」「外国人のためのものでない」と頑強に断られて二人とも困ってしまった。数人しかボーダーを超えないのにバスは我々のために発車できない。バスの運転手が降りてき、何だかんだという役人の言葉を通訳してくれた。「腕時計をくれたらバスごと通してくれる」と。
どうやら最初から目を付け嫌がらせをしていたらしい。この「時計はフィアンセのものでやれない」と突っぱねると「どうしてリングをしてないのだ」から始まり、フィアンセとの出会いから説明しなければならない破目に。すったもんだの挙句、この問答遊びに満足したのか、飽きたのか諦めたのか分からないが、急にニヤッと笑うと「ケニヤは好きか」と聞かれ「ケニヤは大好きだ」を何回か繰り返しで、やっとパスポートにスタンプを押してくれて「クワヘリ」「クワヘリ」でお終い。
二人とも怒り心頭だったが、それ以上に気の毒だったのはバスの乗客、表情のよく分からない顔と大きな目を見開いたまま私達のやり取りに付き合わされたのだから、、。
このモヤレの役人だけでなく、ボーダーで英語がすこ~し話せる役人程油断できず危険な人間であることを、私達はいやっというほど思い知らされたのである。
そして2,400メートルの高地にあり、独自の文化を誇ってきただけにアムハラ語という共通言語で種族間の意思疎通を図っている。当時の皇帝ハイレシェラセがアムハラ族の出身であり、どの種族の女子・子供に至るまで最低3~4種族の言葉を話せる。政策上アメリカやソ連、中国の援助を受けており、エチオピアの北方エリトリア地区は元イタリア領だった。地域での内乱、種族間の小さな争いはこの国も同じで、他種族を抱えたアフリカの課題であり、地理的なこともあるが、他国に侵略されずに独自の文化を維持し続けてきたのであろう。
ケニヤからエチオピアに入った途端に様相がガラッと変わった。モヤレからアジスアベバに至る地帯はシダモ地帯と云われ、湖が沢山あり、青々とした樹木が生い茂り、野生の動物や珍しい鳥達の宝庫だという。またこの地帯はコーヒーの産地である。丈はそんなに高くなく葉も広くない。色は濃く味は苦みが強く日本のティラミスに似ている小さなカップで日に何回も飲むのは、エチオピアでも同じだった。
ちなみにこの飲み方をエチオピアの共通語アムハラ語でブンナベッドという。又主食はインジェラといって、テフという植物を粉にし、北京鍋のような幅の広いもので薄く焼く。それを伝統的な模様で作ったざるのようなものに移して、手でテフをちぎってはカレーのようなルーにつけて食べるのである。
当時日本円360円=1ドルで、バーの後ろ側の壊れかかったホテルが1~2ドル。早々に荷を置き、早速自然の欲求にかられ「トイレはどこか」とスワヒリ語で何回叫んでも、群がってきている老若男女誰一人応えず、ただ大きな目でじーっと見つめるだけ。英語、日本語、アラビア語ちゃんぽんでも全くダメ。さ~弱った!!アムハラ語で‘トイレ’のことが分からないし、こうなったら恥も外聞もない。
手ぶり身振りで何とか分かってもらおうと必死。そしたら一人の子供がニヤッと笑ったと思うと、目の前の丈の低い柵らしき場所を手で指している。よく見ると、その中にま~るい小さな穴があるっ切り、
見回してもトイレらしき建物はない。そういえば、メインストリートらしき一本しかない通りで、汚れた着衣のモスリムのおじいさんが、道端に屈んだと思ったら(大)をし始めたのにびっくりしたのは我々だけ、よくよく見てると大人も子供も平気でしており、驚いたことに女性など立ったままでしているのである。長い民族衣装の裾がしゃがんだり立ったり何をしていてもカバーし、実に機能的だったのに感心。ところが我々のジーンズ姿ではそうはいかず、炎天下で何か陰に相当する場所を探すのに懸命。みんなは、私達が何をしようとしてるんだろう、と一挙一動大きな目で追いかけてるだけ。枯れた枝やつるの集められた茂みのような場所がやっと見つかり脱兎のごとく駆け込み、ほ~と一安堵。遠くからの群衆の視野からは逃れようもなかったが、、。通じるための最低のアムハラ語を覚えねばと、ついて回る子供たちを相手に、地べたにごちゃごちゃぐるぐるを描いたら「これは何だ?」が口々に。 よしっ、この手だと、車が小休止する毎にレストランまがいの所に入ってはのべつくまなく「これは何だ?」を繰り返した。生まれて以来、行水らしきものをしたことがあるのか無いのか、子供たちの殆どは裸、大人も何色だったか分からなく変色した千切れた袖口のワイシャツに、ノミ・シラミが蔓延しているシャーマンを被る。その体臭は鼻が曲がるほどである。
我々のような旅人は、現地の体臭に慣れないと現地に溶け込めないし、有難いことに嗅覚が麻痺してくるので正直助かるのである。しかも、ほとんどの人が何らかの疾患や疾病、栄養失調を患っているのは発展途上国の宿命かも知れないが、貧しさゆえの教育や衛生環境、経済効果の影響が弱い所に及んでいるからか、、。当時のエチオピア南部は、豊富な森林や雨が多い地域で、野菜や栽培の技術を教えられてないので、自然がそのまま放置されていた。
首都・アジスアベバの街並みは、広~い横幅の通りが延々と続いてほとんど高い建物もなく、レンガ干しの低い屋根の家が軒を連ねてあり、その前で老人や婦人達が集まっている。日に数回コーヒーを飲みながら雑談している脇を牛がのそのそ歩いていて、リヤカーや荷車が通ったり、鶏や犬と裸足の子供達が至る所にたむろしていた。もちろん現地人用のバスやジープを改装した乗り物などは常に乗客であふれていた。
ここで、現地のモデル女性との間にできた男の子を溺愛し、アジスに惚れこんでしまった日本人画家の方に声をかけられ、逗留させて頂く。外国人とみると声をかけ、私達のようなフーテン族の出入りが結構あったようだ。
バス停などあろうはずが無く、乗客が手を挙げたところで止まり降りて、乗ってくる男性客には多分挨拶を、若い女性客には声をかけ何やら交渉しているかのよう。女性が首を横に振るとあっさり片手でイス席への合図、首を縦に頷いた女性はドライバーのアシスタント用のイスに座らされ、歌を歌ったり、女性のほっぺに手を差し伸べてはランチ休憩や小休止など傍にべったり侍らせている。女性も平然としたもので、夜の宿では二人で腕を組んで部屋の中に、、。2日目は又違う女性をゲット、私達も3度3度の食事ごとに半ば強制的に同伴され、彼の食欲の旺盛さに唖然!で納得。そうでないと体がもちません。
好奇心と人の好いドライバーのお陰で、私達は現地人でなければ見れない場所にも案内され、体調を壊して急行列車並みでも快くも臨時停車してくれたり、30分、1時間のトイレタイムにドライバーが行ずりの女性と消えて現れるまで、乗客は辛抱強く待たされてどんなに迷惑だったことか。
宿泊の為にバスが泊まる毎にドライバーから安いホテルを教えられた部屋に落ち着くなりノミ・シラミの点検、食料の買い出しを兼ねて街中を探索し、4日目でエリトリア地区のバスの終点、紅海に面したマッサワに着いた。
いろいろ街中を案内してくれるという軍人の候補生と知り合い、彼の「何か欲しい物はないか」「行きたいところはないか」と細やかな気配りに私達は大いに助かった。中でも彼の誠実なエピソードを一つ。私が、ピーナツが大好きで探しても見当たらないと言うと、一日中かけて探し回ってくれたのには感謝、今でも鮮明に覚えている。
目を輝かしながら独立を勝ち取るために誇りを持って戦っていると語っていた彼は、エリトリアが独立(1993年5月)した後も元気に活躍しているだろうか、、とこうして書いていても、彼への思いが甦ってくる。
大半が中国の資本で成り立っているアデン湾への出口にあるソマリアの一端(ジプチ)に足を踏み入れた。砂塵にまみれて、ただただ広い未舗装の道の両側に軍の基地らしきコンクリートの低い建物がずらずらっと並んでいた。その上、人通りに人ひとりっ子いず、時折迷彩色の軍人らしき人物や砂地の方が余程きれいに見える汚れた衣をまとった男性が通るのみ。数時間歩いても店や宿らしき建物が見えず途方に暮れる。たまに見る男性達の今にも襲ってきそうな目で私達の一挙一動を執拗に追いかけていたのにはさすがに不気味で、通りがかった軍人さんに身振り手振りで救いを求め、連れていかれた所に女性がたむろしていたのにほっとした。早々退散する。
マッサワからアジスに戻るバスの運転手が偶然にも同じドライバーにはびっくり。お人よしの饒舌と質問攻めに悩まされつつも、街中で現地の人々との交流は、ほとんど言葉は通じなくても言葉を超えた繫がりに心温まり、生きとし生きる者としての長~くて深~い感動で気持ちが潤ってくるのです。
エチオピアからエリトリア、ジプチ、エチオピアまで一周の行程は次の通りです。
アジスアベバ(エチオピアの首都)→デブレマルコス→バビルダル(タナ湖)→ゴンダル→アクスム→アスマラ(エリトリアの首都)→マッサワ(エルトリア地区)→アッサブ→ジプチ(ソマリア)→ディレダワ(エチオピア)→アジスアベバ
K/和子
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